この一年の中で

2018年12月29日

人が定めた区切りなのだから、こだわる必要はない、と言いつつも、その区切りを前にして、一年を振り返るということを、すべて否定する必要はないだろうと思われます。
 
私にとり辛い思いを経験した年でした。嵐のような一カ月の中で、果たしてできることはそれだけだったのか、という思いも離れることなく、しかし後悔をしているとまでも言えず、ただ悲しく振り返るばかりでありました。
 
他方また、制しきれぬ舌、というまではないと願いつつも、毒のあることは申し上げてきました。パウロではありませんが、実際に会って話をすると穏やかで弱気に力のないようなところもある反面、根拠のない自信のようなものを見せつけ、ひとを威圧するようなところもある人間なので、まあ書いていることが実のところではあるだろうな、という気もします。
 
まともに向き合って腹を立てた人もいらっしゃるでしょうが、また、また何かほざいている、長い文章など見る暇はないのだ、とスルーされた方が多いのではないか、とも思われます。それは精神衛生上、よかったことなのかもしれません。届く人に、届けば。少なくとも、天には届いているのですから。
 
自分の姿を、客観的な作品の中に見出したときの驚き、これは大きかった。ひとの心を思うのはしんどいことだけれど、それが大切だということ。しかし、それに影響されて自分も変化していく。ただ、自分の変化には気づきにくいもの。そんな出会いは、ほんとうにとうといものだと、改めて知る機会となりました。
 
だからまた、聖書を通して、イエス・キリストと出会う、それが如何に絶大な出来事であるのか、それも噛みしめるのです。神を礼拝するという場で語る者には、それだけは要求させてください。そうでなければ、教会ではなくなる、という実例に、幾度か背を向けてきたような者ですので。



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