『錨のない船』(加賀乙彦)

2018年12月17日

真珠湾攻撃から77年、あまりニュースになりませんでした。新聞のコラムで少し触れるものはありましたが、むしろジョン・レノンのほうが大きいくらいで、騙し討ちのように言われた真珠湾攻撃と外交の実情というものを問うような企画も感じませんでした。むしろその前にポケベルが終わるということに、アダルト世代が感慨深く大きく取り上げていたというばかりでした。
 
ずいぶん前の小説ではあるのですが、この『錨のない船』の存在を知ったのは、私が『宣告』を読んだばかりの頃だったと思います。しかし読む機会を逸していましたところ、最近古書店で格安の上下巻の束を見つけまして、むらむらと読みたい思いが募ってきました。何十年前の恋心が燃え上がった、というと大袈裟ですが、買うことにしました。
 
小説ですので、ネタバレはしないつもりです。加賀乙彦さんは、長年つきあっていたカトリック教会と、この執筆時にはまだ深い関係ではなかったはずなのですが、結局逃れられず(?)、その後洗礼を受けました。この小説でも教会が登場し、信仰への理解がなければ描けないような描き方がしてあると思います。
 
しかしそれよりも、このタイトルの不自然さが気になります。航空機の開発とパイロットがやがて中心になっていく(作者はこの人のエピソードを耳にしてそれを軸に物語が浮かんできたということをあとがきで書いている)のに、タイトルは船であり錨です。海軍の話は出てきません。この説明は、下巻の214頁にありますので、これからもしお読みの方は、そこを楽しみにしていてください。
 
でもやはり不自然です。私は「錨」にいろいろな意味をかけていることを想像しています。もちろんそれは私だけの受け取り方であるでしょうし、それをベースに考えてよいとか、誰かにそれを押しつけるとかするつもりはありません。そのうちのひとつに、私は「怒り」を思いました。もう特に後半は、憤るような場面ばかりなのですが、怒りが爆発するような人がいないのです。普通怒るでしょ、と思うところでも、この家族は怒らない。家族が船になぞらえてあるのは、聖書が船を何のシンボルとしているかを考えても結びつく連想となりますから、これは私だけの捉え方ですが、タイトルのイメージを豊かに覚えつつ、悲惨な運命を辿ったこの家族や知人たちの中に、失礼かもしれませんが、さわやかな風を感じたのでした
 
真珠湾攻撃には、淵田美津雄という総隊長のことも、近年よく知られるようになりました。後にクリスチャンとなり、アメリカに伝道に向かいます。あの真珠湾攻撃のボスです。狼の中に羊が入っていったのです。
 
やがて真珠湾攻撃から100年を数える時がきたとき、平和な中で思い出す、あるいは思い出さなくても済むようであるのか、それとも思い起こすこともできないほどに、壊滅的な戦場や廃墟となっているのか、それを決めることができるのは、いまの私たちとその子どもたちであること、それだけは忘れ去ってはいけないことではないでしょうか。



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