2つの宣伝

2018年12月15日

社用車は、ボディに会社名を入れ、街を走ることにより、いわば広告を出しているようなところがあります。選挙ではありませんが、多くの人の目に触れることで、認知度が高まり、何かのときにその会社名が頭を過ぎる、ということが期待されます。私たちは、聞いたことのないものは信用せず、どこかで聞いたことについては、信用するのが普通ですから。
 
しかしその車が暴走したり信号無視をしたりしているのを見たら、どうでしょう。却って、あの会社はひどいものだ、と悪い宣伝をしていることになりはしないでしょうか。
 
教会や組織の名を出してSNSで気軽に発言するということには、そのリスクを伴うということを、よく弁えておく必要があります。
 
もちろん、そこには誤解というものも入る余地はあるでしょう。本人はその気がなくても、曲解されて、あの人の考えは気に入らない、と叩かれることがあると思われます。いわゆる「炎上」は、群集心理にも似た、いやさらに恐ろしい心理により可能になるとも考えられるわけです。
 
しかし、一定の組織を背景にもちつつ、自分がなんとなく気に入らないという程度で、さしたる根拠もなしに叩き、あるいは揶揄するような発言を見せるというのは、揶揄されたほうよりも、揶揄したほうの品位が疑われてしまうものです。それに気づかないというのは、自分の立場そのものをも気にしていないはずで、自分を傍観者、さらに言えば神にすらしていると見られる場合がしばしばあるように見受けられます。
 
それが私なのかもしれません。いつもそのような戒めを自らに課しつつ、それでもなおそんな自分に気づかないという愚かさを私も、また人間一般も持っているのだという思いが去ることのないままに、今日も言葉を発します。
 
願わくば、キリスト教関係を標榜する方々も、この心構えを肝に据えて発言を続けてくださるように。光を山の上に掲げて照らすことは望ましいものですが、その逆のものを垂れ流しにすることがありませんように。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります