知っていること

2018年12月9日

NHKでドクターGなる番組が再開しています。再現フィルムによる患者の様子を見て、病名診断を下すという、若い医師を相手にしたクイズですが、専門的な医学知識を伴いつつも、医師がどのような点を見るのか、そして私たちもどのような点に気をつければよいのかを知る好機として、人気があります。我が家の医療従事者は、真剣にこれに対しています。
 
その中で、結果的に、食事のバランスの悪さが影響しているというケースがありました。我が家の医療従事者は栄養管理士ではありませんが、食事のバランスをよく考えて食事をつくってくれます。肉と野菜、味噌や酢などは当然チェックしますが、たとえば海藻ときのこ類を外さない、というように、よいポリシーをもっているのではないかと思います。
 
ちょっとした知識、それが大切なのだとしみじみ思います。無知は怖いもの。知らないと、平然とそれを続けているということが、体によくないと知ると、改善していくこともできるでしょう。しかし知らないと、まずい道をひたすら突き進むことになります。この差は大きいと思われます。
 
開発途上国と呼ばれる国、貧困に喘ぐ国に遣わされて援助するという試みは、ただ何かをしてやるというわけではなく、その地域の人々が自分たちで働き、動いて、生きていけるようにもっていくことが重要だとされています。その時、たんに技術を提供するのではなく、知識が、つまりは教育が大切だとよく言われます。衛生ひとつとっても、知る・知らないの違いは絶大です。衛生の知識をもてば、何をどうするべきかをひとは考えていくことができます。気づきがあれば、改善が始められますが、気づかないことには、直す気持ちにもなれません。ナイチンゲールの医療改革も、要するにそこのところであったのですから、文明国といっても、こうした点について気づいたのは比較的最近のことであるのです。
 
昔の人の知恵も尊重すべき時があります。先頃亡くなった女優の赤木春恵さんは、かつて『おばあちゃんの家事秘伝』というベストセラーを出しています。おばあちゃんの知恵袋などというフレーズと共に、有名になりました。中には、その後の科学的な裏付けがなくむしろ逆効果という「知恵」があったかもしれませんが、こうした昔の人の知恵は、概ね役に立つものではないでしょうか。言い伝えられている知識があるのとないのとでは、生活がずいぶん違ってくるということがあるのでしょう。
 
もちろん、知識があればそれで十分と言ってしまうことも難しいでしょう。分かっちゃいるけどやめられない、ということがあります。私だといま睡眠不足が危ないと考えています。短い時間に慣れてきて、却って長く寝ているとからだがどうかする、というような理屈をこねて、また夜更かしをしてしまいます。いやぁ、いけません。
 
知は力なり、という語は近代の産物であるのかもしれませんが、誤った知識を信頼して邁進するのはほんとうに危険なことでしょう。詐欺にひっかかるのは典型的であるにしても、デマに乗っかる危険性とその加害性は、このSNSの時代には深刻です。先日も、誤った手話紹介を信じた人が多々あったことが社会問題化していました。
 
聖書は、数学の本ではないので、教義は定理であるとはいえず、一人ひとりの受けとめ方というものがポイントとなるでしょう。だからひとの読み方を無闇に誤っていると断ずることは控えたほうが無難ですが、それでも、客観的な知識においては誤った理解をしている場合はまずいと思えることがあります。思い込みも怖いのですが、結局語る者の救いの体験の有無に尽きるような気がしてなりません。いくらテレビ番組を見て知識を蓄えても、実際に京都に行ったことがない人が京都について語るならば、ほんとうに知る人にはばれてしまうわけです。
 
だから、聖書の世界で「知る」という言葉が、体験を含んだ意味をもっているということには、大きな意味があると改めて想います。



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