面従腹背

2018年12月5日

先般の「スピノザ」の話の続きですが、ここでスピノザ解説をするつもりなど毛頭ないので(そしてできないので)、かの100分de名著のテキストに触発されて少し自由に思うところを形にしてみたいと思います。
 
まさにその「自由」のことです。かのテキストで國分功一郎氏は、スピノザの基礎について申し分ないほどに分かりやすい解説をしてくれていると思うのですが、そのときに、「意志の自由」を私たちは何の反省もなしに当然のこととして前提していやしないか、しかしそうでない思想をスピノザは言っていたのだ、それどころか古代ギリシアにもそのようなものは想定されていなかった、という訴えをしています。
 
意志の自由を持ち出すから、そこに責任追及の場が生まれます。だって、あなたの行為はあなたの意志がもたらしたものですから、あなたのしたことはまさにあなたの意志が原因です。あなたはその結果に責任を取らなければなりません。このようにして、いましがたも私たちは「自己責任」という言葉を、「他人」に対して突きつけてきたのでした。
 
スピノザがどのような論理で意志の自由という、近代では当然視される考え方を突き崩していたのか、それはすみませんが、かのテキストを覗いて戴くこととして、この意志と責任についての問題点は、そのテキストの中でも触れていましたが、『中動態の世界』という國分功一郎氏の、小林秀雄賞を受賞した著書が大きなテーマとして取り扱っていたことだけ申し添えておきます。
 
哲学は、誰もが当たり前と思っていることについて、待てよ、そうでないかもしれないじゃないか、と別の面から見る視点をもたらすことのできる営みです。その意味で、この「意志の自由」への抗議は、確かに哲学と呼んでだろうと思います。
 
果たして私は今日、自分の意志によってすべて行為していたでしょうか。およそそれが無理であることは明白です。しかし、だからといって、自分のしたことに何も責任を負わせられないということは、世の秩序を破壊するでしょう。犯罪行為が出来事として起こったとしても、責任を負わせないという法的な処理を私たちは知っていますが、それは私たちも、人間がすべて行為を自分の意志で行っているのではないと分かっているからでしょう。
 
私たちは、自らの意志を自由と「見なす」ことはできるし、そのようにして日常を生活しているのですが、意志なるものが根底的に自由で「ある」と規定することには無理がある、そして自由な意志で自分が「行為している」とまでは言えない、そこを確認しておきましょう。
 
流されておかなければならないと判断する場合が私たちにはあります。自分にとり本意ではないけれども、従わざるをえないということがあるはずです。國分氏はそれを、カツアゲを例に出していましたが、要するに何か脅されて私が金品を相手に「渡した」この行為は、文法的にも行動的にも、受動態として扱えないことです。が、それは私たちの感情には反する理解であるといえます。だって、強制されて逆らえない中で、相手の思うがままに金を渡しただけなのですから、「渡した」私に責任がある行為であるはずがないだろう、と。
 
これを、自分の意に反するからといって、金を渡さないとなると、いわば自分の生命を棄てる覚悟でやるという事態を呼ぶことになります。私たちは人生を日々このような、命懸けで立ち向かう勇気を、普通持ちません。人生の選択で損をする道を選ぶ、というのはままあることだろうと思います。私もそれをやっています。しかし、下手をすると命を失うという賭を始終やっていくのは、基本的に無理です。惜しむのは自分の命ばかりではありません。私も、家族を人質に取られていると思うときには、自分を捨てて従わざるをえない、そういう経験をしたことがありました(結局それは長持ちはしなかったのですが)。
 
ひところ話題の「面従腹背」というのは、(表向き従いながら、意志はそれを求めていない、というような意志的な読み込みを避けたならば、)このカツアゲ的状態を説明する言葉であってもよいような気がします。意に反することを、何かしら自分の行為として実行しなければならない状況に置かれている、ということです。そこには自由はなかったのであって、従って責任を他人が求めるというのは場違いではないでしょうか。
 
そう、カツアゲされて金を渡した当人が、自分はあのとき違うこともできたのではないか、と悔やんだり、自分は臆病だった、と振り返るのならば、それはまだよいのです。しかし、カツアゲされて金を渡した人のことを、傍観者が、あいつは渡さない意志をもてたはずで、その自由の結果渡さないでいるべきだったのに、渡したというのはけしからんことだ、と非難するは、ファリサイ派どころではない傲慢で「無責任」な言いぐさではないでしょうか。
 
この辺りの議論は、國分氏の話とは違ってきています。つまり、それを誰が判断しているか、という点に注目している点です。「面従腹背」と呼ばれうる行為をした人が、従っている「ふりをして」腹の中で「反抗している」というように策略を操作しているのならば別ですが、もしもその場面では何かしら「従わざるをえない」中に置かれている時に「自分らしい心や良心を犠牲にしていた」というのならば、少なくとも他人が、非難する理由はない、というふうに私は考えるわけです。
 
私たちはできるならば、自分の良心や信仰を素直に行動に移せるような中で暮らしたいものです。それが何らかの強制により、従わざるをえない状況に追い込まれてしまうことも、時々あるのは仕方がないでしょう。それはストレスになりますが、いくらかのストレスは、本来生命活動を活性化されるためのものであり、全くストレスがないのもよろしくないわけです。ただ、それが慢性的になるのはメンタル的に危険信号です。
 
教会は、世の中と違い、この素直に自分を生かせることの可能な場だと思います。多くの場合、そこに集う仲間を信用することができます。その信頼を世の中の誰彼に対してももつことは、正直言って、できません。では教会にいる人は百パーセント信用できるのか、それもまた極論です。そして教会の活動や奉仕に、意に添わないこともやはりあるのは現実です。しかし時に、教会に理想郷を求めた人にとっては、教会でそんなことがあるなんて、とか、教会でこんなことを言われた、とか言って、もうここは天国ではない、ダメな教会だ、と非難したり、教会に絶望して信仰を離れたりする場合があり、悲しく思います。また逆に、教会といっても人間の集まりだから、いろんなことがあるさ、と達観したようにして、教会が無秩序になっていくのを許してしまう、という見方も、なんだかそぐわないような気がします。
 
教会に属する誰もが、自分に厳しく、他人に寛容であれば、この事態は改善に向かうかもしれません。牧師などのリーダー的存在が、自分に甘く他人に厳しいというのは論外ですが、単に自分に厳しく他人に甘くしていては、実は「教育」にはなりません。先生は生徒を叱る必要があるのだし、それは精一杯愛の思いをこめた弾を打つような営みであるものとして、教育を施さなければなりません。だから牧会、つまり魂の配慮は難しいのです。霊性と、スキルが伴うのです。
 
このことを、信徒も弁えておきたいものです。信徒もまた、牧会について学ぶ意義がここにあります。先生がどんなことで苦労しているかを知った学生は、それに応じた学生へと変わることでしょう。牧師がどういうことを思い、行っているかを学ぶ信徒は、きっと良い方向へ舵を取る助けができることでしょう。
 
教会にも、面従腹背は、いくらかはあるでしょう。何もかも自分の気に入るように動かしていくというのでは信仰が成り立たないと言えましょう。自分の思う通りでない場合、自分はまた聖書により、教えられる必要があります。そう、聖書というカノンが私たちにはあるのです。誰がどう間違っても、つねにそこに規準たる聖書があります。さらにいえば、神がいて、イエス・キリストがいます。そこから聴く姿勢をもって臨めば、面従腹背における「腹」が変化します。私が変わります。ぎくしゃくしていた関係も、腹が変わることで、面従腹従にもなる可能性が出て来るではありませんか。



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