井戸

2018年12月2日

エジプトは砂漠があるイメージですが、ナイル川という水源がありました。聖書の世界でエジプトが農耕豊かな産物に満ちた地として描かれているのはそのためです。定期的な氾濫が肥沃な土をもたらした件は、歴史の教科書でも学びます。
 
しかしパレスチナには大河がありません。ヨルダン川はあっても、近辺は町の建築には向いていないのです。エルサレムの降水量は東京の三分の一ともいわれ、人が生きるには飲料水の確保が絶対的に必要でした。
 
自然の泉を利用することもできました。泉があればその近くに町が建設可能でした。また、城壁の町は敵に包囲されて兵糧攻めに遭ったときに、水で困らないように給水施設を設けることがありました。ヒゼキヤ王が優れた水道を建設し、アッシリアの包囲に一時堪えたことがありました。その貯水池がシロアムの池です。イエスが生まれつきの盲人の目をそこで洗わせて見えるようにした逸話にも登場します(ヨハネ9章)。しかしエルサレムの水道は、ダビデがそれを通じてそもそもエルサレムを攻略したというように、かねてから存在したものでもありました(サムエル下5章)。
 
しかし荒野の旅をするイスラエルの民にとって、その生命を支えた水のためには、井戸が切実な問題でした。旧約聖書によく登場するベエル・シェバという名(ベエルが井戸)は、おそらく「七つの井戸」という意味だろうと解されていますが、「誓いの井戸」とも呼ばれます。南部の砂漠(ほんとうは沙漠と書く)地帯の都市で、現在も大きな都市として存在します。アブラハムがアビメレクと誓いを果たし(創世記21章)、イサクを献げる事件の後に住み(創世記22章)、後にイサクもそこで主と会い、彼もアビメレクと契約を結びました(創世記26章)。また、「ダンからベエル・シェバ」までという表現が、イスラエルの土地を表すために後々まで使われることとなりました。ダンが北限、ベエル・シェバが南限です。
 
「湧き上がれ、心の井戸〜」と賛美する元気のよい歌(作詞作曲不詳)がありますが、それは民数記21章にある、《主がモーセに「民を集めよ、彼らに水を与えよう」と言われた井戸》において歌われた歌に基づきます。イスラエルの民が旅の途中でそこに着いた時のことです。
 
  井戸よ、湧き上がれ
  井戸に向かって歌え。
  笏と杖とをもって
  司たちが井戸を掘り
  民の高貴な人がそれを深く掘った。
 
そもそも井戸というものを見たことがない人もいるでしょう。福岡でも外れの地で育った私は、最初水道が通っておらず、各家には井戸がありました。井戸掘りの専門業者がいて、定期的に水質検査もしなければなりませんでした。きっともっと昔は釣瓶(つるべ)で汲んでいたのでしょうが、記憶にあるのはすでに電動装置で汲み上げる形式でした。地下十メートルなどという単位で横たわる水源ですから、一年を通じて水温が一定で、夏は冷たく、冬は温かく感じました。天然のミネラルが豊富で美味しかったと思います。
 
イスラエルの井戸が果たしてどのようであるのか、私たちのイメージとは違うかもしれません。浅い穴でも水にありつけたかもしれませんし、人が入れる穴のようなものもあったことでしょう。ヤコブの子ヨセフが兄弟に棄てられるとき穴に投げ込んだ(創世記37:24)のは、涸れた井戸だったのではないでしょうか。井戸に落ちた息子か牛かを安息日でもすぐに引き上げてやるだろうとイエスが言うとき(ルカ14:5)、その井戸が十メートルもあるようには思えません。
 
イサクの嫁探しのときに、リベカが井戸に来てらくだに水を飲ませようとしたときには、そこは泉であったように書かれてあります(創世記24:16)。井戸と泉は同じものであることが分かります。
 
そのイサクは、ペリシテ人たちと、井戸のことで争ったことが記録されています。但しイサクは実は争わず、他に井戸を掘っています。戦わずに逃げたわけですが、ここからイサクの平和主義を読み取る人もいます。しかしその井戸もまたゲラルの羊飼いと争うことになり、井戸に争い(エセク)という名を付けています。イサクはさらに井戸を掘り、またそれについて争いが起こり、敵意(シトナ)と名付けたといいます。イサクはまた別に井戸を掘り、ついに争いがなくなったので、広い場所(レホボト)という名を付けたと聖書は記します。また、他にも井戸を掘っており、こうして七つの井戸という名前のベエル・シェバが生まれたように考えられています(すべて創世記26章)。
 
水を汲むのは女の仕事だったと思われます。しかしなかなかの重労働でしたので、暑い昼の最中にするものではありませんでした。ヨハネ4章で女がわざわざ昼に井戸に来ていたということは、人目を避けていたと考えられます。また、最後の食事をするための部屋を求めたイエスが2人の弟子(ルカはペトロとヨハネと記す)を遣わすとき、都に入ると「水がめを運んでいる男に出会う」(マルコ14:13,ルカ22:10)と予告しますが、奴隷であったことでしょうが、男が運んでいるというのは珍しい風景だったかもしれません。
 
あなた自身の井戸から水を汲み
あなた自身の泉から湧く水を飲め。(箴言5:15)
 
箴言の言葉ですが、この後に、「若いときからの妻に喜びを抱け」と述べ、よその女に心を奪われるなと忠告します。神ならぬものを第一とするな、というふうに読み取ってみては如何でしょう。あなたの心の奥の源は、何ですか。



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