スピノザ・100分de名著(2018年12月)

2018年11月29日

哲学は、原理から発して体系的な説明をしようとします。何かしら原理を以て世界の説明を始めようとしますが、その原理の発見は、他の現象を経て哲学者が見出したものであると考えられます。デカルトの方法的懐疑はその過程を明らかにしてくれる好例でしょう。カントもそれに匹敵すると言えましょう。プラトンは、ソクラテスを俳優のようにして、それを見出す過程そのものを対話篇として遺しました。これが、西洋哲学の底流をなし、西洋哲学の歴史はプラトンの注解書である、とまで言わせた人を生みました(ホワイトヘッド)。
 
しかしそれは哲学者という、論理と自己検討に長けた者のすることであって、凡人がそれをしたのであっては、えてして単なる思いつきや、自分の都合のよいように、つまり恣意的に原理を作ったつもりになるに留まります。これは、神学についても気をつけなければなりません。ひとはしばしば各自の神観念をもっており、自分の考える神こそが唯一の神観だと豪語したくなります。それを他人に押しつけたり、他人の神観を安易に否定したりさえするのです。福音書でイエスがファリサイ派や律法学者と対決した本質のひとつはそこにあると言えないでしょうか。
 
スピノザは、17世紀のオランダで、近代哲学のスタートの時期に生きました。当時は哲学者は大学教授という形が一般的ではなく、スピノザも招聘を断る経緯があったようです。デカルトのように、貴族のスポンサーもありませんでした。いまでいう在野の思想家として、存命中には殆どその著書も出版されませんでした。デカルトの思想は、イギリスの経験論の系譜と並び、大陸合理論として後世の西洋哲学の主流となりましたが、スピノザは汎神論だとして異端とされ、傍流の存在としてしか扱われませんでした。但し、実際その哲学的方法は、ドイツ観念論などに大きな影響を与えていると言われています。
 
今回NHKのEテレでもう定番となった「100分de名著」は、このスピノザを扱います。担当は、國分功一郎氏。私は『中動態の世界――意志と責任の考古学』で出会い、感銘を受けました。切れ味の鋭い人で、私の及ばないフランス哲学について造詣の深い方です。スピノザについても著書があります。その本では、ギリシア語の中動態について探る中で、スピノザの思想を用いていましたので、私も関心を寄せていましたが、そのことが今回このNHKの企画に当たったのかもしれません。
 
このテキストは、難解なスピノザの思想についての、私の知る限り最良の入門書となっていると思います。テレビでも放送されますが、おもしろおかしく扱う部分が多いため、情報量はテキストのほうが断然多いはずです。テキストをお勧めします。すると、私たちが陥っている思考法がいかに相対的で恣意的なものであるかを思い知るかもしれません。
 
たとえば、スピノザは、神は無限であるという点を重要な原理とします。おそらくキリスト教徒もそのように思うでしょう。神が有限なお方ではない、と信仰告白もしたでしょう。しかし、スピノザは、その「無限」の意味を徹底し、ある意味ではとても素直に読み解いて主張します。神が無限なのであったら、私を含めすべての存在者の中にも神が及んでいるではないか、と。もし私が神と対立しているとしたら、神は私に関して無限ではなく有限となってしまうことは、無限の論理的な帰結となるでしょうから。
 
ところがこのような考え方は、当時のあるいは現在もそうかもしれませんが、教会の教義に反しました。世界の至るところに神が偏在するなどというのは汎神論であり異端だ、としてスピノザの本は発禁処分となります。ユダヤ人でありましたが、徹底した態度で臨む思想は無神論者だと見なされ、ユダヤ人からも命を狙われる羽目にも陥りました。
 
スピノザは死後発表された主著『エチカ』(倫理学という意味)を、「幾何学的秩序によって論証された」ものだとして掲げました。およそ哲学の本には似合わないような、定義や公理・定理といった風貌で淡々と述べられていきます。ウィトゲンシュタインはこの方法で著作したことがありますが、あまり見られない手法であり、またスピノザの思考枠自体が私たちのオーソドックスなものと異なるため、まともに読むとよく分からないのですが、今回このテレビにより、そしてテキストにより、ぐっと身近にそれが感じられることは間違いありません。
 
私たちが当たり前と思っていることが、果たしてそうだろうか、という挑戦を受けることになるでしょう。聖書を自分の都合のよいように読む罠を意識したことのない方には、とくにお勧め致します。素朴な信仰を私は尊びますけれども、聖書を説き明かす立場の人が、あるいは聖書を深く読み解いているつもりの人が、思い込みにより他者にそれを強いるようになる危険を伴っているのは事実です。そして、聖書を誰かに伝えていく時にも、相手には相手の世界観や思考法があるのだという、当たり前のことに改めて気づくためにも、頭の中をリフレッシュさせるかもしれない、この機会を利用して戴きたいと願うのです。



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