牧師や説教者のための祈り

2018年11月13日

先週、駐車違反の件で綴ったことは、法に従うということのひとつの意味でした。そこを、今日は、少し違う角度から光を当てて考えてみます。
 
ところで、確かに知った牧師や伝道師の方もそこそこもっている私ですが、Facebookを始めて、そうした方々につながる申請を、お会いしたことのない方にも求めてきました。有名人と友達になることで自分を大きく感じようなどという心理は、基本的にありません。だとすれば、いつもおとなしく太鼓持ちのようにしていれば十分であって、私の見解をずばずばと明らかにはしないことでしょう。牧師や伝道師が目にしたら確実に怒りを招くような激しく失礼な言葉をしばしば書き綴るようなことはしないでしょう。しかしそんなに反論や非難が(皆無とは言いませんが)飛んでこないのは、読んでもらうことが殆どない、ということなのかもしれません。長いのはうんざりするでしょうし、お忙しいことでしょうから。
 
ここでは、私なりに福音のメッセージをも公開しています。自分にしか聞こえないような言葉もあろうかと思いますが、その中から、何か普遍的なものもきっとあるだろうと信じ、ひとを生かすこととなれば、というせめてもの願いからですが、こうしたものを牧師などのプロの方々の目の届くところに置くということを、ある意味で想定したいう理由が、かの申請の背景にあるのは事実です。それは、ど素人で神学校など行けもしないような者が綴るメッセージをもしも目にしたからには、当然これ以上のクォリティの説教をして戴きたい、と願うからです。失礼に言い方に聞こえたらすみません。こんなアマチュアの者が語るメッセージ以下のものを、そして全く命のないような話を、講壇で慣れっこになって語って戴きたくない、というお願いです。
 
というのは、愚にもつかない講演会を聞かされてきたことがあったからです。キリストに出会ってもおらず、聖書から何かを聞いたということもない者が、説教だの奨励だのと言って礼拝で語るような事態を経験してきたからです。そしてそれは、その教会を崩壊させました。仕方のないことだと思います。
 
そんな例は特別だったのかもしれません。しかし、かの駐車違反の件から何かを学べないでしょうか。ドライバーなら分かるでしょうが、速度制限を守って走っているという方のパーセンテージは低いと思われます。確かに、40km/h制限の道でも、50km/hくらいは普通で出していることでしょう。さすがにこれは、警察でも検挙することはありません。たとえその条件で走っていて事故を起こしたとしても、標識と比して10km/h超過の違反故の事故、という処理は、警察はしないはずです。もちろん、そこを70km/hで走っていて事故を起こしたらこれは拙いことになるでしょうが、このあたりの点では、速度制限の標識を杓子定規に違反という仕方であてがいはしないと思われます。けれども、駐車の場合には、厳密に5m以内という測定をしないまでも、これは見逃せないというあり方があるという、いわば匙加減を身に染みて私は知ったわけです。その点で、自分の見解や法解釈は通用しません。定められた法適用の前には、自分の理屈などは通らないわけです。
 
牧師は、講壇からこのようなことを語ることがあります。「神はこのようになさるに違いない」「神のみこころはこのようにすることです」「神はこのような人を裁く方ではありません」などと。神の代弁者として、人を慰めたり励ましたり、説教というのはそれが神の言葉となる出来事なのだ、などという理解で責務を負うが余り、いつの間にか神の意志を牧師が解釈したものこそが真理であるとして告げていく危険性があるように思えます。本当に神の法はそのように適用されるのでしょうか。痛い経験をするまでは警察の適用方法を知らない一般市民のように、牧師だからと言って、神の適用方法を熟知しているとは恐らく言えないのであって、精一杯祈り求めて学んで、神はきっとこういうふうに仰りたいのだろう、と推測したり信じ願ったりしているのがせいぜいのところではないのでしょうか。それがいつしか、自分の解釈の通りに聖書は言っているに違いない、というふうに気持ちがすり替わっていく可能性があることを、常に弁えている必要があるのは確かです。
 
牧師も、他の信徒と共に同じ立場で、神の前に立つ時がくるとすれば、そのときに自分の言い分で判決が決まるとは限らないという点を、厳粛に押さえておく必要があると考えるのです。もちろん、信仰によって救われている、という確信があるというのはとても素晴らしいことなのですが、人間はそんなに信仰者列伝に掲載されるような信仰のあり方ばかりができているわけではありません。それはまるで、草野球を楽しんでいる打者が、俺は歴代の2000本安打を果たしたプロ野球選手と同じ実力なんだぜと豪語するようなものです。いつの間にか、自分の都合のようような信じ方になっていやしないか、吟味を忘れていると、簡単にすり替わってしまうかもしれません。誰もが、荒野の誘惑を簡単にパスできるわけではないはずです。
 
つまりは、自分が神の裁きを定めるわけにはゆかない、ということです。それへの信頼をもつということとはまた少し違う次元で、さしあたりまず、自分の願望を神に投射しているという事態を警戒しているべきではないか、ということなのです。ということは、聖書を解釈する説教においては、神はこのような意味で言っている、という断言をするのでなく、最終的には聴く側個人が、神からの言葉を聴き、それぞれに応答する場をセットする、そこに説教の本来の使命があるのではないか、という気がしてきます。如何に有名な牧師であろうと神学者であろうと、条件は変わりません。神の前に等しく立つことになる身分として、神の言葉を語る、その仕事の畏れ多いこと、それを戦慄を以て、まさに戦きつつ引き受けていることだろうと思うのです。
 
私が気ままに綴ってみても、それを神の言葉として受け取る必要は何もないし、そう聴いてくださる方は殆どいないでしょう。それでいいし、私としても、私の放つ言葉の背後に神からの問いかけや呼びかけがあるとわずかでも感じてもらえればそれで十分です。しかしこれは私の挑戦です。神への挑戦でもあるし、神とまだ出会った経験のない方への挑戦でもあるし、それにまた、神の僕として働かれている方々への挑戦でもあります。一介のこのような者の語るもの以下の言葉、説教を、教会で語るようであってほしくない、毎週のノルマをとりあえずこなす生業のようにして戴きたくないのです。その日、その時にその言葉を聴かなければならない人がいるかもしれません。次の週にはもう聴くことのできないことになる人、あるいはその時一生に一度だけ教会に来ることになる人、かけがえのないいまこのときに、いわば命を懸けて聴く人がいるかもしれないわけで、語るほうも命を懸けて語って戴きたいわけです。
 
本を出したり、イベントのポスターになるような説教者には、取り巻きもできます。悪い気はしないでしょう。しかし、それはスキャンダルにもなります。罠です。すり替えが少しずつ行われているうちに、気づいたら取り返しのつかないところまで滑って行ってしまっていた、ということにすらなりかねないのです。
 
もちろん、SNSで、助け合ったり支え合ったりすることは喜ばしいことです。信徒どうしでも、信仰を語り合うというのは睦まじいものです。しかし、その語り合いが教義的なものを軸として共感していくと、その教義めいたものが独り歩きを始めることがあります。「神はこう思うに違いない」「神はこうなさる方です」が先行してしまうのです。そしてえてしてそれは、実のところ、教団や組織が教えた教義そのものであることが多いのです。自身では自分の信念として自分に与えられたものあるいは自分が選んだものであるように思うものですが、実際は組織が、あるいは指導者が、こうですよと断言したことであって、すっかりマインドコントロールされている、というケースが多いのです。
 
これは、カルト的な組織またはそのような精神状態に陥った集団の中で経験しないと、なかなか実感がもてないでしょう。巧妙で、しかもどんどん信じさせられていく、追い詰められているが本人はそれが神の心に適い自分が聖化していく道なのだと思い込んでもう他の思考ができなくなる、こうした構造は、幸せな信仰生活をしておられる方には、想像もつかないことだろうと思います。しかしだからこそ、自分がそのような危険な中に入っていることが、自覚できません。電話での詐欺など、騙される方がどうかしている、と高をくくっていると実は一番危ないという常識をご存じでしょうか。すり替えてその気にさせる巧妙な罠を仕掛ける側のやり口は、大変怖いのです。私も金銭被害ではありませんが、騙されたことがあります。異端と呼ばれるグループに入っていった人たちは、愚かな故にそうなったのではないのです。偶々、その網にかかったというだけで、非常に素直で純朴な方々ばかりだとも言えます。真面目な学生であり、真面目な主婦である点では、むしろ私なんか太刀打ちできないくらい立派な方々です。
 
知ったようなことを? ええ、しかしエホバの証人と直に話したことはあります。統一協会の学生と一晩議論したこともあります。ビデオを見ませんかとアンケート片手に近づいてきた人との接触も経験しました。血のイニシエーションの誘いを受けるように公園で目の前に杯を渡されそうになったこともあります。モルモン経の2人組の青年に話しかけられもしました。手かざしを向ける人もいました。創価学会の訪問を度々受け、集会で問い詰められたこともありました。こう思い出してくると、これらの体験が日常的にありえた京都というのは凄いところなのだと改めて想います。さらに私はもっと激しい組織の中で一年間を過ごしたこともあります。ひとが、精神的にどういう中で容易に変化させられていくものか、身を以て味わっています。
 
SNSの中でいろいろな人が記事を書いたり呟いたりしているのを見て、これは危ないと感じることも度々です。すっかり思い込んでいる、と感じたり、仲間内で楽しそうに語らいながらも、全員で操られていると思える場合もあります。自分が王様になっているとか、自己愛の塊だとか、聖書のことを話題にしながらも、それが怖く見えることがあります。結果的にそうでなければよいがと思いつつも、ひとがそうやっておかしくなっていく道筋のデジャブを見るのは辛くなります。もちろん、自分がその例外の立場にいるようである虞もあるわけで、まさに「目を覚まして」いなければならないとはどういうことか、肝に銘じておく必要をひしひしと感じています。
 
さあ、また長くなりました。法に従うことから、その法は神が決めるはずなのに、まるで自分が法を解釈したのが真理そのものだと思いなしてしまうような事態がありうることを言いたいがために、ぶつくさと余計なことまでお喋りしてしまいました。名のある方々の影響は大きいものです。信徒は、指導者や上に立つ人々のために、切に祈る必要があります。そして当事者もまた、どうぞご自分のためにも祈ってください。教会員のためにだとか、日本の救いのためにだとか祈ることは多いかと思うのですが、自分のためにもっと祈って戴きたい。自分が歪んでいかないように。ずらされて、すり替えられて、的を外していくことがないように、自分を点検し、自分の語るべきことを教えてもらえるように、自分のために祈って戴きたい。とりなすなどという美徳めいたことよりも先に、責ある自分のために。私のような者が呟くメッセージの数倍も命と愛に満ち、聖書を知り、神と交わり、クォリティの高い、ひとを生かすメッセージを、謙虚に、しかも大胆に、語り続けて戴きたい。
 
それが私の今日の、そして常なる祈りです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります