駐車違反

2018年11月9日

留めていた場所が交差点にかかっていたということでした。住宅地であり、車は住人のほかめったに通らない道であり、道幅その他の状況からしても、誰かの不都合にあたるとは恐らく誰も感じない場所であしたが、3分間運転手が現れないために貼られたということでした。
 
その紙にあった説明は、恐らく法律的な意味をもたせた言葉であったのでしょう、分かりにくい。電話をしましたが、その日本語から感じた読み取り方で問うと、そういう意味ではなくて、と対応係が説明をしました。それはたぶん、よほど法的な用語使いに慣れた人でなければ、正しい意味には理解できないだろうと思われる書き方なのでした。
 
さらに、不服があれば云々とありましたのでそれはどういうことかと尋ねたら、たとえば、と例を説明してくれましたが、これがまた、その「不服」からは想定できないような特殊な場合でしかなく、とてもその文面からは想像がつかない事態を指しているのでした。これもまた、読んだだけでは分からない、と言わざるをえないものでした。
 
要するに貼られた時点でもう終わりなのですが、慣れた警察側あるいは法律家ならばいざ知らず、そんな文面を読んだことのない一般庶民は、いくら読んでも想像もつかない意味が隠されていたということです。もちろん、経験のある方はお分かりですね。
 
誰かを傷つけたとか、何かしら迷惑をかけたとかいうこととは関係なく、道路交通法に定められているが故に、適用されたらそれで決定、という処罰を受けることになりまくした。
 
私も、甘えていてはいけませんから、それはそれで「法」の前に何も言うことができない以上、従うしかないわけです。が、このときに「法」とはどういうものか、身に染みて体験したということになりました。
 
ユダヤの律法は、紛れもなく「法」です。日本語で律法と訳したところで、それは都合上のことであり、法則も法律も律法もみな同じ言葉です。イエスが律法学者を批判し、対決をしている姿を福音書でキリスト者は十分知っているつもりではありましたが、その法が庶民を如何に苦しめていたのか、まだ私は生半可な印象しかもっていなかったのだということをこのとき感じたのです。
 
法が定めている以上、情状も実害もなにも関係なく、人を処する権力に服するしかないという実際です。しかも二千年前のその時期、そのことで人間そのものが評価され、差別を強いられていたのでした。イエスはそのような法的弱者の側について、法の解釈を身を以て問うたということにもなるでしょう。これは法治社会における出来事でした。それはなにも現代だけではありません。ローマ法はいまの法と基本的に同じですし、ユダヤの宗教法は、神の前に存在する人間そのものを規定するという厳しさがありました。法治社会に楯突いたイエスは、法的に抹殺される、これもまた法に基づけば当然のこととなります。如何に庶民に人気があろうと、情的に加担したかろうと、法の定めによって決定されることになってしまいます。そのように考えると、イエスの死刑への道は、私たちの感情的な理解とは違う、法という側面から冷静に捉えなければならない過程であったことが改めて迫ってきます。
 
原典には、法的な用語がかなり登場することも聞いてはいます。法的な営みとして、イエスの裁判なり、使徒言行録の記事なり、パウロ書簡の表現なりを読んでいくことにより、福音書の深みがまた見えてくるような気がします。そもそもイエスは、旧約聖書の実現という形で登場したのでした。旧約聖書はなにも物語集ではなく、中枢は法体系です。イエスの時代の律法学者とて、この法を軸に学び、適用し、また自ら生活をしていたわけですから、基本的に何の落ち度もありません。そこに抵抗したイエスのほうが、法治社会を揺るがせたことになるのかもしれません。
 
そのことから、パウロのローマ書13章の、いわゆる権威に服従するという考え方について、古今様々に理解され、検討され、また時に利用されてきたのでした。宮田光雄集の「国家と宗教」は、一冊すべてを懸けて、この問題の歴史を問うものとなっていました。
 
そんな法は認めねぇ。ドラマでは時折カッコイイ台詞が蒔かれますが、政治は百パーセントこの法により動きます。その法を作るのが国会です。私たちは国会議員を選挙するとき、それほどの重みをあまり考えていないのかもしれません。
 
そういうわけで、一番適用されやすい、道路交通法には、皆さまもお気をつけください



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