不愉快な思い

2018年10月24日

少し不愉快な思いをしました。
 
店名は出しませんが、最近できた人気の店で買った品物が、売場で表示されていたものと、レシートの額とが違うことに気づいたので、売場でスマホに写真を収めました。どうやらこの日は、普段の一割引きになっていたようですが、レジシステムはふだんの価格で登録されていたのでした。担当したレジの人に価格が違うと申し出ますと、売場はどこかと尋ねられました。レジ係は売場についてご存じないようです。あちらだと指さしながら、私はスマホを開いて見せましたが、レジ係は殆ど見ようともせずすたすた歩きます。「信じてもらえないんですね」と私が言いましたが、返事はありませんでした。
 
いいんです、そういう場合、店員が直に確認しないといけない、というきまりがあるなら、それで。ごまかす客がいるかもしれませんから。でも、一言そうした説明があってもよいのではないですかねぇ。客がわざわざ写真まで撮って見せたことに対して、反応が何かあっても。
 
戻ってくると、渋い顔をして他の店員と相談してレジにかかります。価格の調整をしているようです。妻はクレジットカード払いをしていますから、通常、クレジット取り消しをして、すべて打ち直すというのが筋です。これまで、そんなことを幾度経験したか知れません。尤も、レシートをその場で確認するからこうしたことになるわけですが、実際設定ミスは多々ありますので、特売を目指して買ったのに安くなっていない、というようなことは日常的なことです。気をつけられるとよいと思います。
 
しばらくして商品を手に、現金と訂正証をもってきて、「これですね」と妻に差額を現金で渡しました。これにはちょっと妻も――客商売をする身として――我慢がならず、告げました。内容的には、次のようなことです。
 
――まず「申し訳ございませんでした」からではないですか。価格の間違いや、待たせたことについて、真っ先に詫びるところから始まるのではないですか。クレジット払いだったのに客の同意なく現金で返したことについても説明なく「これですね」はないんじゃないですか。つまり、謝罪と説明とが必要であったということです。
 
実はその店員、売場から私と共に戻るときに、「現金でお返しします」とだけ言っていたのです。もちろん、すみません、などはありません。私にそう言ったので、妻に言う必要はない、と考えたのでしょう。しかし私は妻に言っていませんでしたし、たとえ言っていたとしても、釣りを渡した相手は、先に告げた私とは別人なのですから、言わないのは明らかに怠慢です。
 
ここで注釈を入れますが、クレジット払いの時には、このような店側の誤りがあった場合には、先の取引をすべて取消扱いとしてから、再び正しい入力を全部やり直し、新たなクレジット払いを立てるというのが、正しいやり方。でないと、顧客とクレジット会社との関係において、正しくない記録が残ることになるからです。但し、その取消にはしばらく時間がかかることにもなりますし、客の了承があった場合に限り、間違った差引分を現金で客に戻すことは現実にしてよい、ということになっています。しかし勝手に現金戻しをしつつ、謝罪も説明もなかった、この二重のミスがまずかった、ということになるわけです。
 
きっと、レジの自分が打ち間違えたのではないから、自分のせいではない、という思いが強かったのでしょう。どうしてまず自分が謝らなければならないのか、が分かっていなかったのです。その思いが根底にある以上、通常の店員としての対応ができるわけがありません。
 
さて、これでぶち切れていては、何の益もありません。私は違うシチュエーションを頭に描いていました。教会の礼拝で、牧師がちょっとどうかと思われるような話をしたり、反応をしたりした場面があったとします。会堂には初めて、あるいはそれに近い方がいました。その方に失礼に聞こえるようなことだったことが明らかでした。さて、信徒の私はどうするでしょう。自分が言ったわけではない、自分は関係ない。その方から何か尋ねられても、そんな態度をとるのがむしろ普通であるのではないだろうか、と思ったのです。
 
レジ係であろうとともかく店員である以上、その店の一員です。その店の看板であり代表です。店のミスはその代表として接することがなければ、客に不快な思いを抱かせます。また、そのような対応をとるように、店も教育しておく必要があるでしょう。今回、そんなことをレジ担当に教えていなかったのではないかと疑われます。コンプライアンス教育ができていないとなると店の失態です。その点、さすがに百貨店は教育がしっかりしていることを感心します。博多阪急などは、ほんとうに店員の隅々まで徹底して客本位で応対してくれるので、いつも気持ちよく買い物ができます。
 
一信徒であるにしても、私は教会に属しているならば、教会の一員であり看板であり代表です。来られた方に対して、また来られずとも教会に関わったり出会ったりする外の世界の人々に対して、教会そのものであるように見られているはずです。それに見合った態度でいるだろうか、と思わされたのです。もちろんそれは、キリストの顔という意味にもなる場合がありますから、キリストを貶めるような態度をとることはしたくないものです。かといって、クリスチャンのくせに、という言葉に怯えるつもりはないのですが……。
 
またそれは、このようなインターネット世界における発言にしても同じです。教会をよくしたいがためではあっても、不愉快な思いを抱かせる可能性の高い内容も、私はよく口にします。しかしまた、それを表面的に見た方にとっては、教会の評判を落とすようなことになるかもしれません。ただ教会だけならまだしも、聖書や神から人を引き離すようなことになったら大変です。このバランスは難しいところですが、教会の顔として見られる、そんなことを教えられながら、さてどうしたものだろう、と思案している昨今です。



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