左利き、そして

2018年10月4日

9月末のNHK「あさイチ」という番組で、「左利き」の特集が組まれていました。私は右利きですが、左手でもいくらかのことができ、時に右利きの人とは逆の手で何かを行う場合もあります。しかし、世の中の仕組みについて不便を感じたことはありません。
 
しかし左利きの人は、生活のあちこちの場面で不自由を感じているという指摘があり、またそういう声を視聴者から集めていたので、具体的な困難を知ることができました。いえ、教室でも、子どもにはさみを貸すときに、左利きの子の苦労を知っていますから、申し訳ないといつも思っていますし、左手で横書きをするなどどんなに大変か、見て知ってはいるわけですが、ほんとうに「ちょっとしたこと」についても、不便や傷つくことがあるというのは、番組を見てひしひしと伝わってきました。
 
急須など調理用具の向きももちろんそうですが、ラテアートの向きが悲しいとか、並べられた寿司の斜め具合が反対で食べにくいとか、正直当人でないと分からないし気づかないということが多々あることに、驚きを禁じ得ませんでした。
 
そう、社会の仕組みは多数派によって決められ、多数派には便利につくられているのですが、少数派がそれに対して如何に困っているかについて、あまりにも無頓着であるわけです。
 
私はろう者と関わっていますから、聞こえない立場の人がどんなにこの「普通の」社会で困っているか、また時に人権を踏みにじられるような目に遭っているか、についていくらか感じとることができるようになりました。それで、皆さまにもそうした点に気づいてほしいというメッセージを送り続けてきました。「見えない」人の不便さはある程度想像することができる私たちですが、「聞こえない」人の悲しみは、全く気づかないでいることさえ多々あると思うのです。
 
こうした少数派の立場、それは必ずしも人数の多少で量るものではない、ということも私たちはだんだん覚えてきました。新約聖書の時代、ファリサイ派や律法学者、祭司グループなど、エリートたちの数そのものは、一般庶民と比べると少なかったことでしょう。が、この特権階級を中心に社会はつくられ、それを基準に物事が決められていたわけですが、そこへイエスが、そうではないということを命を張って訴えたと理解することもできると思います。もちろん、イスラエルが弱小民族だからこそ神は愛した、というような、いくらか自らに都合のよいような解釈も旧約聖書以来定番となっていて、人数の面や権力の面などから、弱い立場を神が支えるという構図があることが、イスラエルの神支配に関係しているようにも考えられます。
 
でも、難しいものです。だから、弱い者こそ正しいのだ、と立ち上がるのは勇気ある正義でもある一方、それを笠に、逆に膨れあがるようなことをしてしまうのも人間です。虐げられてきたから今度は何をしてもよいのだ、という論理もなんとなく認めてしまう場合があるのは、虐げてきた側の負い目もありましょうが、人情的に確かにありうることでしょう。果たしてパレスチナにおけるイスラエルの姿勢は、どう捉えるとよいのか、世界を二分するような問題として挙げられます。
 
左利きの子は多くなりました。きっと以前は「矯正」して、右で文字を書かせるようにしていたのが、近年はその子の持ち味のままに育てていくという考え方になってきた背景があるからでしょう。元々人口の一割ほどはあるだろうと推測されているものが、そのままの数字で現れるようになっているということです。カミングアウトの困難な少数派は、様々な場面でありえます。ようやく社会には、そうした立場の人のことを大切にしようという空気が生まれてきました。キリスト者は、できるだけそうした人々のことを尊重しようという側にいることが多くなっているように見えます。
 
他方、キリスト者自身もまた、日本社会では特にそのような少数派に属します。その上で、明治以来の歴史の中で、キリスト者が様々な場面で大きな影響を与えてきました。総理大臣でさえ、キリスト者の占める割合が一般より遙かに高いということもよく知られています。難しいもので、少なくても自分たちは正義だという自負は、ある場面では必要なのですが、これが過ぎると傲慢となります。そのバランスをとるのが、愛という、実のところよく分からない概念であるように私は感じるのですが、さて、まずは左利きのことを知りました。いつも気にかけて生活していきたいと思います。それから、いま気づいていないであろう、そのような人々のことに、気づく心を与えてくださいと願います。



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