清い

2018年9月16日

マルコ7:14-23には、汚れと清さとが対比されています。主眼は汚れですが、日本語にはどうしても、こうした言葉に「色」がついています。
 
「ケガレ」とよくカタカナで示されますが、対立概念は「ハレ」でしょうか。神道の世界になるかと思いますが、「ケガレ」はむしろ「ケ」と称されます。これは日常生活の範疇にあり、「ハレ」は非日常な出来事を指すようです。しかしまた、「ハレ」と「ケ」とは別に「ケガレ」という概念を置くべきだという理解も多く、時代や解釈者によりいろいろな捉え方があるとも聞きます。たとえば葬式を、「ケ」とする捉え方と「ハレ」とする捉え方とがどちらもあるのです。また、「ハレ」を「聖」、「ケ」を「俗」と見なす場合もあるようですが、これだと聖書の捉え方に少し近づくかもしれません。
 
聖書での「汚れ」は、やはり旧約聖書の律法規定に根拠を置いています。さすがに事細かく挙げることはスペース的に困難なのですが、病気であったり、死体に触れたり、食べ物に関する規定であったりと、これらはおもにイスラエルの宗教的儀式や交わりから、一時的に遠ざかるべきであるという内容であるように見えます。神に奉仕する場合、こうしたものに関わっていてはできない、そこから離れていよ、とするのです。この「離れる」ことが「聖」という言葉の本来的な意味なのです。
 
従って、福音書のイエスが語ることから推察するように、何か道徳的な響きや、醜い心ということを元々はイメージさせるものではありませんでした。イエスは、行為に出るところで罪を量るというよりは、動機や心の内実によって、律法を真に守るとはどういうことか、をよく語りました。表向き従っていればそれでよしというものではなく、心の中はどうですか、という問いかけを、おそらく現代もクリスチャンは受けていることでしょう。しかし旧約の規定では、決してそういう考え方が主流ではなかったということです。
 
聖書で「清い」というのも、やはり旧約聖書由来の言葉です。「聖い」とクリスチャンは綴ることもありますが、それは元来の「聖」の意味を際立たせていることになります。上に挙げたように、それは「分離」の意味を含みます。普通じゃないんだぞ、特別なんだ、というニュアンスです。神が聖であるのは、神は人間や被造物とは決定的に一線を画しており、超越しているということを表します。日本思想でありがちなように、人が神に祀りあげられる、そうした「神」概念とは明確に異なるのです。
 
このように、「清い」ことは、神に関して言われるのが基本でした。しかし、神に献げられたものも同様に「清い」ものと考えられます。神に献げるに相応しいものが、特別なものでないはずがないからです。動物犠牲の是非はともかくとして、献げられる動物には欠陥が少しもあってはなりませんでした。
 
新約聖書でも、儀式的に清さが語られることもありますが、ここマルコ7:19では、「それ(=外から人の体に入るもの)は人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」と新共同訳は訳しています。しかし岩波訳はこの19節を「(前節からイエスの言葉が始まったその続きとして)なぜならば、それは彼の心の中に入るのではなく、腹の中に入って便所へと出て行くからだ」。こうして、すべての食物を彼は清いものとした。」と訳しました。新共同訳の「こうして、すべての食べ物は清められる」という訳し方は、従来からそのように訳してはいたものの、実は議論のあるところで、「清める」という動詞が現在分詞であるにも拘わらずその主語が分かりづらいことにより、つながりが曖昧になっているため、別の訳も可能になっている、ということなのだそうです。確かに、岩波訳のほうが、意味は受け取りやすくなっているとは思います。また、この点は田川建三の訳もこれと同じ観点であると言え、口語訳やフランシスコ会訳、新改訳2017も同様です。つまり身近なところでは、新共同訳だけが、この「清い」のフレーズをイエスの言葉の中に含めているわけで、これは、訳出の基準としているギリシア語版(ネストレ=アーラント第27版) に基づいていると聞きました。こうなると、今年12月に刊行される「聖書協会共同訳」が楽しみになります。
 
 ※ この版については、青野太潮氏より、少なくとも1960年の第24版から最新の第28版までずっと、イエスの言葉の中に含んで理解しており、疑問符を19節の最後に置いている、との指摘を受けました。第27版で初めて変更されたのではなく、従来がずっとそうであったこと、そしてむしろ多くの邦訳が、このネストレ=アーラント版を無視して、イエスの言葉の外に出しているのであろうと考えられることを教えて戴きました。ご教示感謝致します。
 
イエスは食べ物について汚れているなどという判断をしなかった。こういうテーゼを以て読んでみるとすると、ここでの「汚れ」を、道徳的なという読み方でもよいのですが、神の国に相応しいかどうか、あるいは神と出会い神の愛に包まれるようになるかどうか、そんなふうな基準からして、神に不適切である側のことを言っている、というふうに捉えることによって、食べ物ごときで神に背反するなどと考える必要はなく、外から人の中に入ってくるものが単純に神によいと思われるかどうかを決定などしないのであって、そうではなく、その人の内側から神に対して悪辣なものを発生させていくようなことの方が、その人を神から引き離していくことになるのだ、と受け止めていきたいものだな、と私は思っています。まあ、訳の細かな技術はともかくとして、福音書が告げるおおまかな意味については、誰も読み誤りはしないでしょう。
 
ここでの用例はともかくとして、「清い」というのは、人間の罪から分離されていく様子を描こうとするものでしょう。それは人間自らできるものではありません。やはり人間自身の内から出てくるものは、大したものではないのです。人間が自分の自信や力によって、自分を神に相応しいものにつくる、といったことができない、というのが聖書の基本路線です。「清い」ことが人間と神との間で成立するためには、清いお方が仲立ちしなければならなかったのです。もちろん、それがイエス・キリストです。私たちはますます、イエス・キリストに注目して、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストから私たちにしてくださることに、任せていきたいと願います。



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