礼拝していた

2018年9月16日

母の闘病については多くの方々がお祈りくださり、感謝しきれませんが、この場を借りて御礼を述べさせて戴きたいと思います。
 
危篤というのは正確ではないのでしょうが、それに近い状態が長く続き、福岡を遠く離れることが懸念されたために、益城町へのボランティアもお休みすることでご迷惑をおかけしました。また、これだけの理由だとは言えないのですが、礼拝に出ずに病院につくという日曜日を選び、それが息のある母との最後の交わりでした。
 
その日曜日、牧師夫妻が夕刻、訪ねてもよいかという連絡。我が家のことはよくご存じです。コーヒーでおもてなしを、と準備をしかけていましたら早くも到着。路駐だからと玄関先での話となりました。いろいろ交わさなければならない情報を手短に伝え合い、最後に牧師が祈ってくれました。恐らく、それが訪問の一番の目的だったはずです。顔を見て、その場で祈りたい、と。
 
その中で、「今日は別々のところで礼拝することになりましたが……」というフレーズ、私は忘れません。
 
常識的に言えば、私たちは、礼拝を休んだのです。礼拝を欠席したのだし、教会に行かなかったのです。しかし牧師は、別々のところで礼拝をした、と断言した。
 
それは、私たち夫婦も、すでにそう話し合っていたからでした。母のそばにいることが、今日の礼拝である、と信じていたからこそ、病院で過ごしたのです。母も家族もクリスチャンではありませんから、もちろんそこで讃美歌を歌うわけでもありませんし、公祷を口にすることもありません。もちろん説教を施しはしませんし、聖書の言葉も、他の家族などがいれば朗読しません。けれども、疑うことはありませんでした。これは礼拝である、と。
 
中には、そんなものは詭弁だ、と思う人もいるでしょう。こんな考えがまかり通ったら、教会には誰も集わなくなるかもしれません。牧師は商売あがったりです。普遍的に認めてよい言明ではありません。しかし、主イエスが福音書で語っていることを総合的に受け止めるとき、これは礼拝である、という信を否定するつもりは全くありませんでした。
 
そこへ、あの牧師の祈りです。私たちが、礼拝していた、と言ったのです。見抜いていたのです。あるいは、そのように信頼していたのです。
 
実のところ、これは私の妻が牧師に、礼拝に行けませんが、という時に、でも礼拝はしていますから、という気持ちを伝えたことに端を発するそうです。しかしその言葉に直ちに牧師が同意したのも確かであり、それを覚えつつ祈ってくれたということが、何よりありがたいと思えてなりませんでした。
 
日曜日に催される、1時間から1時間半の集会のことを、通常「礼拝」と私たちは呼びます。そこから、日曜日だけは信仰しているように振る舞うが他の日は聖書や教会とは関係のない生活を送る人を、サンデー・クリスチャンなどと称する場合もあります。また、「礼拝」に来て神の前に出るとか、「礼拝」のときに自分がどう思うかとか、そうした話も出てきます。
 
けれども、これも制度を崩壊されるような言い方であるかもしれませんが、私は四六時中が礼拝だと思っています。意識の中では礼拝していると始終考えているのではなかったとしても、どの瞬間にでも礼拝モードに戻り、いえ、そもそも礼拝のスイッチが入ったままで他のことをしている、というのが生き方だと理解しています。神が私たちといつも共にいるのであれば、私たちはいつも神と共に生きる、あるいは生かされている、としか言えないと思うのです。もちろん、こんな定義が聖書に書かれてあるようには見えませんが、聖書を私はそのように受け止めています。
 
世の、哲学的な議論が噛み合わない原因は、使われている語の定義が異なるからです。同じ語を口にしながら、互いに別のものを考えているから、意見が噛み合わないわけです。この「礼拝」という語もそうです。表現がきついかもしれませんが、なまくらで凡庸な牧師だったら、私たちのために祈るとき、「礼拝を休んで」とか「礼拝に出られませんでしたが」とか言ったことでしょう。そのような「礼拝」の定義をもっているからです。けれどもそれは、ある意味で律法的な定義でしょう。少なくとも主イエスは、そのような定義をもっていなかった、と私たちは聖書を読んでいます。
 
たんに場所が違っただけ。共に神を礼拝していただけだ。考えてみれば、この思いなくして、聖書のスピリットは通じ合わないのではないでしょうか。聖書に散らばった「文字」が、この組織液に満たされるとき、すべての成分が行き通うようになり、細胞がはたらくようになり、キリストのからだを建てていくようになるのではないか。オーバーに思われるかもしれませんが、それくらいこの信頼は大きなものであったのではないかと、私は喜んでいたのでした。



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