もう一人のサラ

2018年9月2日

創世記に登場するサラは、アブラハムの正妻です。アブラハムの異母妹ともされ、アブラハムの前に主が現れたとき、元のサライという名からサラに改名させられます。サライとなると「王女」のような意味合いが強く出ます。
 
サラは90歳でイサクを生むまで不妊であり、この不妊というのは当時の女性について、最悪の人生となる運命でした。決して、「生産性」がないからそうなのではなく、子をもうけずにいることが、家系のために何もできない、つまりこの世で何の役割も果たせなかったことと見なされたからです。アブラハムはサラが127歳で死んだ後にケトラという側女と再婚します。このとき立て続けに6人の子が産まれていますから、もしかすると不妊の原因はサラにあったのかもしれません。アブラハムの子が約束の子であるなら、ケトラとの間に次々と産まれた子がそうだとすればよかったのですが、そうではなく、サラの産んだ唯一の子であるイサクがイスラエルの系統へとつながっていったのですから、ある意味でアブラハムとの契約は、サラの問題そのものであったと言えるのかもしれません。
 
新約聖書の中で、ルカの系図の中にサラという名前の人物が登場します。が、こちらは「L」の綴りのようなものがあり、アブラハムの妻の場合は「R」ですから、日本語だけの問題となります。
 
ところが、ほかにもサラという女性が重要な役割を示す物語があります。
 
通常プロテスタント教会では使用しませんし、「聖書」の中に数え入れませんが、カトリックや正教会では数え入れるものがあり、それは新共同訳聖書では「旧約聖書続編」という名で、これらを入れたものをも販売しています。実はイエスの発言の中にも、この中と関連が深いものがあったり、新約聖書に出てくる事柄を理解するのに非常に有効な場合があったりしますので、そして何より物語が面白く、西洋の美術や文学にも大きな影響を与えてきた歴史がありますから、読んで知っておくことをお勧めします。私は年間通読の際、続編を含めて読んでいます。
 
旧約聖書続編の中に、「トビト書」という比較的長い書があります。物語が描かれており、、トビトというのは敬虔なユダヤ人で、アッシリアによる捕囚の人々の中に生きたとされています。ニネベにてトビトは、人の嫌がることも熱心に行い、常に神に祈る男でした。ところが鳥の糞を目に受け、失明してしまいます。その苛々と正義感のために妻に当たり、辛い気持ちで祈ります。
 
その同じ日、メディアにひとりの女性がいました。メディアというのは、イランを含む広い地域で、千年以上も繁栄し、ペルシャとしても国が続きました。その王キュロスによって、バビロニア帝国に捕囚となったイスラエル人たちは帰還を許されることになります。この女性の名が、サラ。結婚した男が最初の夜に死ぬということが七度も続く、悪魔に呪われた女性でした。7人の兄弟が夫となったが次々と死んだという、サドカイ派の者がイエスに向けて問いかけた話が思い起こされませんか。
 
神はこれら2つの苦しみを一度に解決する道を考えました。
 
トビトは、メディア地方にいる知人ガバエルに金を貸したままになっていることを思い出します。自分の死を思い描く中、トビトはひとり息子のトビアを差し向けて金を返してもらうことを考えました。しかしトビアは、トビトの子だと信じてもらえるのか、第一どうやって現地へ行けばよいのか分からないと返事を渋ります。そのとき、トビアの前に若者が現れて、同行して助けてくれると言われました。これが、神が差し向けた、天使ラファエルでした(ラファエロという画家の名を思い出しますね)。
 
二人はメディアへ旅に出ます。途中で(ヨナほどではないのですが)巨大な魚に襲われますが、退治します。そしてアザリアと名のるラファエルが、その魚の心臓と肝臓、そして胆嚢をとっておくように教えました。アドリアはやがてサラの家に宿を求めます。トビアに、実はこのサラが親戚であり、結婚するのだとトビアに告げます。トビアは、悪魔に目をつけられたサラの話を聞きますが、それを救うのはトビアだけだとアザリアに励まされ、サラを深く愛するようになりました。
 
親族であったサラの父ラグエルは、トビトそっくりなトビアの訪問を喜び、サラと結婚したいという申し出を喜びますが、しかしこれまでにも7人の男が、結婚したその日に死んでいることを思うと、今度もまた死んでしまうのだろうと憂鬱でした。
 
食事をして受け容れられたトビアが、あの魚の肝臓と心臓を、焚いた香の上に置くようにとアザリアに命じられた通りにしておくと、悪魔は逃げだし、サラは悪魔から救い出されます。二人は祈りを捧げて平安な夜を過ごします。翌朝、墓を掘ってまたひそかに葬るしかないと諦めていたラグエルは、トビアが元気なのを見て驚きます。しばらく引き留められますが、多くの財産を受けました。されからガバエルの許にアザリアを遣わして、婚礼の席へガバエルを呼びます。婚礼は14日間も続きました。それから金も返してもらい、それ以上に多くの祝福の財を得て、ニネベへ、今度はサラをも連れての旅が始まります。
 
一方、トビトと妻は、息子トビアの帰りが遅いのを案じていました。とくに母親は、どうして危険な旅に行かせたのかと嘆くばかりでした。毎日毎日息子が出て行った道を見つめて一日を過ごします。放蕩息子の帰還をいまかいまかと待ち受けていた物語が頭を過ぎりませんか。
 
ついにトビアの姿を認めた母親は狂喜乱舞です。トビアは、あの魚の胆嚢を父の目に塗りました。すると父の目の縁から白い膜が剥がれ落ちます。パウロの回心のときには、ウロコのようなものが(目からウロコ)落ちて、視力を回復したのでしたね。トビトはサラを喜んで迎え入れました。
 
婚礼の宴がここでも行われました。そして、アザリアへの報酬をトビアは、財産の半分でもお渡ししたいと提案しますが、アザリア、つまり天使ラファエルは、いつも神をほめたたえていなさい、と勧め、また慈善に励みなさいと告げた後、自分は主の御前に使える七人の天使の一人、ラファエルであると明かし、忽然と消えます。
 
こうしてトビトは神を賛美し、後に、父母が死んだらその日にニネベを出るように、とトビア夫婦に命じました。トビアとサラは、メディアの地に移ります。サラの父ラグエルの許で暮らすのです。トビアは生きている間に、あのニネベの町の滅亡を知ります。
 
以上がトビト書14章の内容です。トビアの妻となったサラが子をもうけているとすれば(14:12、但し聖公会続編にそう記してあるが、新共同訳では書かれていない、私の見たギリシア語原典には息子たちと記してある)、アブラハムの妻サラとは事情が違うことになりますが、ギリシア語での綴りは同じです。単に名前が同じというだけに過ぎないかもしれませんが、こちらもなかなか魅力的な――ちょっとできすぎているけれど――物語だと思いませんでしたか?



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