悩んでいる人へ

2018年8月31日

教育の世界の常識は、もはや親世代には思いも及ばぬものに変貌しつつあります。磯野家のカツオ君は、8月31日の夜に夏休みの宿題をするのが定番でした。説教を垂れる波平さんに、そんな暇があったら手伝ってよ、とカツオが逆ギレし、二人して汗を流している、というコマもありました。しかし、もはや夏休みはそれよりも早くに終わります。ゆとり教育のツケが溜まったかのように、この一週間がなければカリキュラムがこなせなくなったのです。
 
確かに、6週間もの夏休みは、持て余し気味ではありました。しかし、自分で自分を律する訓練の時にもなりえました。とはいえ、十把一絡げにすべての子どもたちが同じように訓練に勤しむわけでもなく、あまつさえ、夏休みの宿題すら、一律に出すべきものであるかどうかが問われています。宿題請負会社というのは、昔の児童小説にはありがちでしたが、もはやそれが大人のビジネスとして成立するほどになりました。オークションサイトに宿題が売られているという始末でもあります。
 
夏休み終了の日付がいつであれ、それなりの長期の休みが明けて、学校生活という日常が始まるのがこの時期です。そして、これを死ぬほど嫌だと思う子も、決して少なくないということが、ようやく社会的に認知されるようになりました。それは、幾多の自殺した子どもたちの命と引き換えに、知られるようになったことでした。多くの犠牲があって初めて、この時期は危ないということが、心ある人に意識されるようになってきたのです。
 
大人でも、テレビでサザエさんのエンディングテーマが終わると共に憂鬱になる、という症候群があるそうですが、一部の子どもたちにとり、夏休みの終わりが近づくというのは、死を意識しなければならないほどの辛苦となっていたのです。
 
教会に来ればいいのに。教会関係者はそのように思います。正論だと思います。けれども正論ては人は救えません。それどころか、そもそも当時の正論を徹底的に潰したのがイエス・キリストでありました。まるで被害者たる子どもたちに自己責任だけを要求し、教会の中で安全弁を構えて安心している者たちが、来ればいいのに、では何の解決にもならないばかりか、善いことを望む自分を可愛がるようなことでしかないようにすら思えてくることがあります。もちろん、それは私が私自身に対して感じることです。
 
もちろん、教会の中にも、様々な苦しみを懐き、背負っている人がいます。だからこそ教会に来たのでもありましょうし、ずっと求め続けているという形でいることもあるでしょう。教会で笑顔でいるからハートは元気で明るい、とは限らず、むしろ教会でも、まわりに合わせて作り笑顔をしているのが嫌だと思っている場合もあるかもしれません。けれども、教会にいつもいれば、神の言葉が、また神の霊が、慰めを与えてもいる事実があるでしょうし、支えられていることもあると思われます。当人が気づかなくても、それはあると信頼します。
 
実に、教会に来たことがない、いわば「教会の外」にいる人こそ、助けられなければなりません。救われなければなりません。そこにはたらきかけていく、そこに光を照らすのが、教会に集う者の役割であることは、聖書が随所で告げていることです。直接会えたら会って語りましょう。何らかの形で呼びかけていきましょう。SNSは、「友だち」でなくても呼びかけが可能なメディアです。ふとしたことで目についた言葉が、命を救うかもしれません。その逆に、どうせ誰も見ていないだろう、などと高をくくり、毒を吐いていると、それが命を奪うことになるかもしれません。
 
出て行って福音を伝えよ。教会のドアの外に向けて、何ができるか。中へ入って来いよ、ではなく、外で自分に何ができるか。それが問われます。私自身は輝くことができません。けれども、月のように、太陽の光を反射することはできるでしょう。昼の光に比べたら弱々しい光になりましょうが、無限の神の輝きのほんの一部だけでもしっかりと受け止めて、ある意味で自分を磨いて神の輝きを反射させたら、誰かの道標となるか、または誰かの道をほんのりと照らす月明かりを提供できるかもしれません。
 
教会に来るなどという気力もなく、悩んでいる人。君のことはここからは見えないけれど、君の寂しさや辛さは、イエス・キリストが全部知ってる。そのことを知っているから、祈りの中でいっしょに歩くよ。そして、実はイエス・キリストがもうすでに、いっしょに歩いているんだよ。一番辛い君を、もしかすると、もう背負っていてくださっているかもしれない。そのことを伝えるよ。
 
もしきっかけができたら、教会に連絡してみるといい。君のために席が必ずひとつ空いているから。



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