異端

2018年8月21日

最初にお断りしておきます。信仰の浅い方や聖書についての理解が薄い方、またキリストと実際に出会ったという確信のもてない方々が以下を読むと、もう何を信じてよいか分からなくなった、と思われる可能性があります。私自身はノーマルな福音の話の通じる人間だと考えていますが、極端な考えをお持ちの方とは、うまくお交わりができないことも予め申し上げます。こうした点で許容戴ける方で、信仰の基盤が容易には揺らがないであろうと思われる方には、ぜひご覧戴きたい内容として、記すことに致します。
 
キリスト教の正統派と自称しているグループからすると「異端」と呼ばれる組織があります。先般、キリスト教のある分野にたいへん詳しい方が、その「異端」を描いた本に触れた感想をSNSに記していたのですが、残念ながら、その「異端」について、何もご存じないことが、見ると明らかでした。
 
考えてみれば、多くの素直でおとなしい羊の方々は、「異端」とはなんぞやという問題になど関わりなく、信仰生活を始め、また続けているわけで、何か名前くらいは知っているけどあれはキリスト教じゃないんだし、とか、うちの教会はそれとは関係ないって強調しているね、とか、その程度の認識しかないのが、当たり前なのかもしれません。
 
それも平和な営みであると言えるでしょう。しかし、「異端」のグループは、「クリスチャン」と称する人々をターゲットにしている場合があります。いまはそれほどあからさまにはしていないかもしれませんが、聖書研究に熱心な「異端」は、生半可な聖書理解のクリスチャンに「聖書にはこう書いてありますよ」と説くのが、実は一番伝道するに効果的な方法であることを知っています。徹底的に聖書にこだわるその研究成果は、信者の末端まで浸透していますから、おそらくたいがいの通常のクリスチャンは、聖書知識においては適わないだろうと思います。それは、その記事を書いた物知りの方も、狙われたら危ないように私の目には見えました。
 
私は、最初に飛び込んだ「教会」から少々怪しいところだったもので、そのときそこに何か違和感を覚えるという中で、かなり聖書に対して突っ込んだ読み方をしました。聖書には何と書いてあるのか、とことん追究しなければならない必要性に駆られたわけです。思えばそれが、聖書に対する姿勢として、私にとってはよいことであったように思えます。
 
そうなると、その聖書を読み外しているとされる「異端」たちは、何をどう変えてしまっているのか。それを考えるとき私は、その「異端」たちが単純に悪であるという前提で見るようなことはしないことにしました(実のところはいろいろあったのですが)。カント哲学の思考法に慣れていたせいなのでしょうが、人間がそのような考え方に陥る理由があると理解しました。聖書を自分では読んでそれに従っている気持ちになっていながら、実のところ、自分の腹に仕えているという罠の構造があるのだという捉え方を試みました。
 
だから、私たちがそう呼ぶその「異端」グループだけが問題なのではないと私は見ています。「クリスチャン」たちの間でも、聖書を読んでいると自認しながら、そうではなくなっている、という場面はいくらでもあるものだという前提で考えるのです。但し、このようにどこかメタ理解を伴う考え方は、時に現実から遊離しがちなので、どなたにもお勧めはしませんし、用い方によっては、そのこと自体が罠に陥ることにもなります。
 
私は、有力な「異端」の方々と、直接話をしたこともあります。家を訪ねて来た人もいました。街角で勧誘された経験もありまして、どのようにビデオセンターに連れて行こうとするかもよく分かりました。夜中に下宿に尋ねてきた学生と、平行線に終わりながらも議論をしたこともありました。福祉団体を装ったメンバーもよく来ました。実は福岡に来てからも、職場に現れたことがあったので、私が追い払った(?)こともありました。体験的に、熱狂的な集団の中にいたことがあり、そういう組織がどういう教えをするものかを私は少し知ってもいるわけです。だから、聖書を手に近づく人に対しても、警戒する習慣ができています。けれども多くの善良なクリスチャンは、聖書の話をしましょうとなると、同じクリスチャンや教会だと信頼して交わってしまうかもしれません。するとそのうち少しずつそちらの考え方に染まっていくということも十分考えられます。実際、そうした人は少なくないのです。身近なところでも、最近そういう人がいたのですが、私と共に礼拝している方々、お気づきだったでしょうか。
 
初めから「福音的」な教会に導かれて「幸せな」信仰生活を送る方々からは、想像がつかないだろうと思います。ただ、彼らから見れば、福音的なクリスチャンたちは、滅びの民であって、救ってやらなければ永遠の火の中に入るだけだ、と本気で考えています。その意味では、両陣営に優位差は何もありません。互いに相手を、間違っていると決めつけているだけでわざわざ交わらない、それだけの存在です。
 
「だってあの異端、間違っているじゃないの。聖書に○○○と書いてあるのに」と、毅然とした態度で発言すること、それ自体が罠なのです。向こう側も、同じことを言っています。それは、半世紀くらい前までは、プロテスタントとカトリックとの間でも普通にそう思っていたことなのです。互いに相手を悪魔と罵っていたようなものですから、人間は、そんなふうな思考回路に陥る生き物だとしか言えないのです。知の木の実を食べて以来、そういう知性を持ちうる者となってしまっているのではないでしょうか。
 
属している組織によって救われるのではありません。あの「異端」組織に属している人の中にも、神に魂が握られている人もきっといるのではないかと思います。それはまた、その逆のことも言えるわけです。メンバー登録をしている教会が救いを決めるのではありませんから。一人ひとり、キリストにあって生かされているか、キリストの香りを放っているか、そのように問われるのかもしれません。毒麦も抜かずにおかれる以上、ひとの目には、裁きをするために必要な見分けができないのです。
 
近年は、中国系の「異端」が広まってきています。日本に住む中国出身の方が増えてくるにつれ、そのグループの人も多くなってきています。言っていることは聖書のとてもよい話のようにも聞こえるのですが、そのように目を細めて見ていると、引き込まれる可能性もあります。かといって、彼らを見下すようなことをすると、これまた聖書の基準からすれば罠となりかねません。そして自分が膨らんでいくようになると、よろしくないのです。組織の末端の人々は、概して純朴で素直な信仰をもっています。しかし、それはいつの間にか聖書ではない組織の考えを根底に据えるようすり替わっていく罠に陥っていくのです。
 
せっかく共にいるように与えられた仲間との交わりは大切です。互いにキリストを思い仕え合うことの中に、キリストがいてくださるという信頼を私はもっています。しかし、それでもなお、教会に行く、そして礼拝儀式に参加するのは、人を見るためではありません。鼻で息をする者を第一に気にするわけではありません。神と自分とが出会ったという事実を軸として、神と自分とが結びついている、向き合っている、そこに自分にとり最大のポイントがあります。だから神はいつも共にいるし、いつも神の前にいるつもりではありますが、それでも改めて、神を礼拝する時と場があることには意味があります。そして、出会った神ないしキリストから与えられた視点に基づく神の言葉を語る説教者を通じて、神の言葉が出来事となることの証人であろうと願っています。それとは程遠い説教者が(キリストと出会っていないことが見え透いている故に)しょぼい人間の思想だけを語る(これは「騙る」と書いたほうがよい)教会には、耐えられませんでした。そういうことが複数回ありました。これは、「異端」よりもっと、レッテルがないだけに、見分けづらいものなのかもしれません。
 
当然、そんな私が「異端」ではない、という確証はありません。
 
森本あんり氏が、岩波新書として『異端の時代』を出しました。おそらく以前の『反知性主義』や『宗教国家アメリカのふしぎな論理』の路線から、政治的領域をメインに、ポピュリズムなどを論じているのではないかと思われますが、宗教史の中にそのメカニズムを見つけようという意図が感じられるので、近々手に入れてみたいと思っています。



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