聲の形――聞こえない

2018年8月26日

8月25日土曜日、民放局がチャリティーショーで賑わっている間に、その裏でEテレが、やってくれました。映画「聲の形」を放送していたのです。CMなしでエンディングロールまですべて流すなど、NHKでこれが扱われてよかった、と感激しておりました。封切られたとき、これを見たさに私たち夫婦は、まず博多駅に行きますが満員で見られないと分かると、上映館を調べ、そのまま直方まで車を走らせて見たという映画でした。再び見ると、あのときには気づかなかった点もいくつか見えてきました。そういうのは、まだまだありそうです。なお、あのとき、同じ岐阜が舞台(半分、青い。もそうだなぁ)の「君の名は」も見ましたが、「聲の形」のほうが印象的でした。また、やはりその頃の「四月は君の嘘」の実写版も、かなり高評価でした。
 
さて、「聲の形」の映画ではまだ抑えられていたものの、原作は壮絶ないじめが続く、小学校のシーン。あの教師が実は酷いのですが、映画にはそれはありませんでした。原作のマンガのストーリーを短縮しており、またキャラクターの描かれ方も違う側面で違う印象を与えるものとなっていましたから、マンガとはまた違う作品として鑑賞することもできたのだろうと思います。
 
耳の聞こえない女の子・西宮が転校してくるところから物語は始まります。わるそぼうず(博多の言葉)の石田がちょっかいを出しますが、目立つ石田がいつも悪者とされる一方、その周辺の友だちそれぞれが表向きよい子で実は……というあたり、醜い心理をよく扱っています。
 
「聞こえない」ことで西宮は、筆談ノートでコミュニケーションをはかろうとしますが、その実、ほかの子の心を理解しようという気持ちがはたらかず、とりあえず謝っておくということで、いじめられてもいじめられても笑顔で接する。むしろ他の子からすれば、それが我慢ならなかったのです。そして、そのことが元来仲良しグループだった子たちをばらばらにしていくきます。今度は石田がいじめの標的になったのだでした。
 
石田は、高校生になり孤独なままに生きていました。誰の顔をもまともに見ることができない。人の顔に「×」印が付けられたまま動いているというのは、マンガにもあったけれども、映画だとよりリアルに感じられました。でも石田としては、西宮と何かコミュニケーションをとりたいという思いがどこかにあって、手話教室に通っていました。そんな時に西宮と再会します。そしてあの六年生のときの仲間たちが、別々の高校からも集まってくるようになります。
 
ストーリーを追えばそれだけでまたさらにさらに長文になりますので、それはぜひそれぞれがお楽しみくださいますように。映画には、手話が多用されます。手話には声もついて描かれることもありますが、時に、手話のみになっています。これは私にとってはよいのですが、手話が分からないと、ストーリー展開の一部が分かりづらくなっていたようです。また、上映館でも字幕付きにしたのはほんのごく一部の回だけで、ろう者のファンからは不満の声が出ていました。テレビでも字幕の選択はできませんでした。そこが残念です。
 
ろう者が主人公の位置にいますが、聴覚障害を問題としているもののようにはあまり思えません。マンガの作者の母親が手話通訳をしていたので、ろう者や手話が身近にいたということだったと思いますが、描こうとしたのはろう者やいじめそのものが中心ではなかったのではないでしょうか。しかし「聞こえない」西宮を通じて、実は石田も「聞こえない」生活をしていたのであって、また性格や立場はそれぞれに違っても、登場する高校生たちが皆、何か「聞こえない」でいたように思われてなりません。石田と西宮は素朴な恋愛感情を抱きます。事件を通じて、心の結びつきを感じます(ふたりの名は愛称がどちらも「しょうちゃん」でした)。そして最後に石田は、死から再生する中で、友だちと和解し、そのことで他の多くの、顔に「×」の付いた学校のみんなの顔から「×」が剥がれていきます。つまり、聞こえるようになって解放されていくことで物語は明るい希望に向かうのですが、私たちは人に耳を傾けることをせず、「聞こえない」あるいは「聞こうとしていない」というあり方でいるのではないか、と問われるような思いもします。
 
さて、信仰は聞くことに始まるといいます。私は大学の場で、この「きく」ということをテーマに奨励を語ったことがありますが、「きく」ことは「従う」ことでもあり、また外からの言葉を受け容れることです。聖書はそもそも「読む」ものではありませんでした。聖書の話は「聞く」ものでした。神の声を「読む」というシーンは、聖書の中に皆無ではありませんが、稀であり、本質的ではありません。むしろ神の声は「聞く」ものですし、新約聖書の書簡も、集会でひとりが読むものを皆で「聞く」、説教であったと思しき面があります。
 
「聞こえない」ならば、こちらから伝えようにも「伝わらない」ことになります。恣意的に「聞かない」という場合もありますし、「聞こえないふりをする」場合もあるものですが、そこまでせずとも、私たちは「聞こえない」でいることが実は多いような気がします。そもそも聞こえていないのですが、聞こえていないことにさえ気づかないのです。
 
「聞こえない」ことを比喩的に捉えてみましょう。だから、ろう者が神の声が聞こえないなどということは断じてないのです。音声が認識できないことがイコール「聞こえない」というふうに決めつける必要はありません。手話が映画でも皆をつなぐものとしてはたらいていました。そのうえで、聖書から、あるいは聖書を通じて神が語りかけてくるものを私たちが「聞く」あるいはそれが「聞こえる」ということは、確かに信実の歩みのスタートであって然るべきだったのです。
 
映画の中にあるいじめの問題もさることながら、互いの心を外に出せず、また他人の心を聞こうとしないことからくる孤独の行き着くところが死かもしれないというような映画によって、言葉にならない言葉が、ネット上を渦巻いています。#聲の形 のツイートが絶えません。何と言ってよいのか分からないけれど心が動かされた、という声も多く聞かれます。「閉塞感」は時代のために使われるばかりでなく、若い人々の心のつながりの世界において、「聞こえない」という現象を鍵として、おおいに気になるものとして捉えられたということではないでしょうか。
 
牧師が命を削るようにして祈り生み出す礼拝説教すら、信徒の一部(へたすると大部分?)は、「聞こえない」ようになっている可能性がないでしょうか。私自身も、聖書からの神の声が「聞こえない」でいやしないでしょうか。


○あるコメントに対して
映画ご覧くださり、ありがとうございました。ただ、字幕に関しては、読み取って戴けなかったことが残念です。せっかく手話の理解につながるかもしれないし、また手話が話題になっているということで、ろう者の関心も呼んでしかるべき作品に、字幕がなかった、ということです。決して「わずかばかり」ではありません。ろう者にとり、字幕のない映画は、私たちが一切の音声を消して映画を見ろと言われている状態です。ろう者は従って、字幕のつく洋画は見ますが、日本映画は殆ど見る楽しみがありません。バリアフリーとは程遠い状況です。ろう者は、楽しい映画もアニメからも、殆ど突き放されているのです。「聲の形」は必ずしもろう者のための映画ではないと思いますが、せめて、せめて、このように手話が話題になっている作品がテレビで放映されるときには、字幕の選択くらいできる配慮ができなかったものだろうか、と私は問題にしたのです。このことが伝わらなかったようですが、これを機会に、世の中に「音声が聞こえない」方が、見た目には分からないような状態で相当数いるということに気づいて戴けたらと願います。駅のアナウンスも、災害の警告サイレンも、何も聞こえないでいる方々が、どんな生活を送っているか、また、どういう教会に救いを求めるとよいのか、気づこうと思えばたくさんのことに気づけると思うのです。コンビニのレジで、ろう者の客が何を言われているか分からず黙っていたらおつりを店員から投げつけられた、という事例もあります。私たちは、そうやって何かを投げつけているようなことをしていないか、私もいつも考えています。

それから、この映画は、若い人々に、言葉にならない呻きをもって、多くの共感を得ています。そのことはよく分かります。教会にも、問題を抱えながらも、笑顔を少しでも出せる場所ということでやってくる若者はたくさんいると思います。しかし日常は、あの石田くんのように、いつも下を向き、心を通わせる安心した人もおらず、通り行くひとの顔に×印を感じながら学校に通うという学生が、きっと多いのだろうと思うのです。だから、石田くんに限らず、登場人物の誰かに、「それ、俺のことだよ」と共感できるように思い、支持しているのだと思うのです。傷つきやすく、しかし表向き笑顔をつくる、そんな若い心を、あの映画はよく描いていたのだろうと思います。このナイーブさを一蹴するような大人のいる教会には、若者はきっと来ないでしょう。このような若者の思いに少しでも応えられる大人がいたら、きっとその教会には若者が集まってくるでしょう。私はこの映画は、教会にとり、若者をどう理解するとよいのかというヒントが、たくさんあったと思います。その意味でも、不安で辛い若さの声や心を「聞こえない」大人であるのか、それともその声を何かしら形にしていける大人になりたいのか、この映画は、クロスロードになるのではないか、と私は考えています。

くどくなりましたけど、Eテレがこの夏休みの最後の週末にこの放映をしたというところに、きっと意味があると私は思っています。最初は、民放のキャンペーンにぶつけてきたのか、などと勘ぐりましたが、改めて「聲の形」を見たとき、これはとても思いやりのある企画だと確信しました。二学期の初めに自殺が多いという統計が近年話題に上っています。いまこのことについては詳述しませんが、学校に行きたくない、いじめがある、そんな暗い思いでこの夏休みの終わりを迎える子どもたちにとり、このどこか陰惨な姿を描いたアニメが、最後にもたらす希望は、光になる可能性があるのではないでしょうか。少なくともそのような願い、あるいは祈りをこめて、NHKしかもEテレは、この時期にこの映画のノーカット版放送を決めたのではないだろうか、と私は見つめているのです。もしそうでなかったとしても、私はそのような祈りをもっています。

夏休みの終わり、暗い気持ちで新学期の始まりを考えている中学生など学生がいるかもしれません。土曜日の「聲の形」をこの時期に放映してくれたEテレ、ありがとうごさいます。陰湿ないじめが、希望へと変わり、×印が外れるラストシーンが、悩める子どもたちの現実となりますように。

9月2日(日)の午後にも、なんとこの「聲の形」が再放送されることになりました。短い期間に再放送ということは、反響が大きかったことが予想されます。また、二学期が始まり、いじめや不登校関係で悩む子どもたちへのひとつのアンサーとして、この映画をぜひ見てほしい、というNHKの願いの現れではないかと私は想像しています。自殺の多いこの時期、この物語が、誰かを救うきっかけになればと私も祈らざるをえません。もちろん、8月から9月にかけてだけではありませんけれども。



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