内輪の愛と平和論

2018年8月25日

福岡ナンバーのドライバーは、評判が悪い。今回はそこを取り上げるわけではありません。どの地方にも、運転マナーについてはいろいろ言われる部分があるものです。
 
福岡から遠いその町を走るとき、私が改めて感じたことがあります。それは、「道を譲ってくれない」ということ。たとえば道の途中で右折するとき、対向車が、のろのろとしか進んでいない状況でも、決して、誰も止まって譲ってくれようとはしないということでした。福岡でも、郊外の新興住宅地は、実に歩行者や他車に対して譲る精神に溢れています。市内はそうでもないのですが、私の経験では、必ず、優しく曲がらせてくれる車に出会います。しかしその町では、全く以て無関心というか、誰かほかの人がしてよね、とでも言いたいかのように、誰もが他人に冷たい印象を与えました。
 
歩行者の立場になると、これがまた、車が来ていても、ゆっくり道に出て堂々と渡ります。轢けるものなら轢いてみろ、とでも言いたげに、車のほうを見ようともせず、歩くのが当然だというように出てきます。いえ、これは福岡でも都市部では感じることです。しかしそれは群集心理か、あるいは歩きスマホのようなことが多く、車に気づくとそそくさとどいたり急いだりと、何らかのコミュニケーションの存在を覚えるわけです。その町には、どうもこのコミュニケーションというものが感じられませんでした。
 
知った顔どうしでは、たいへんにこやかで親しげなのです。しかし、他人に対しては、何らコミュニケーションをとる必要を覚えないといった印象を与えます。もしかすると、それが「よそ者」の扱いなのでしょうか。
 
大都会では、バス停ではきれいに人が列をなすといいます。福岡がそれをしないのは、一応別の理由もあるのですが、しかし公共道徳のようなものを守ろうとするのは、ある意味でそれが元々他人の集まりである町だからだ、とも考えられます。つまり、暗黙のルールや因習というものが支配している社会ではないものだから、公共的な社会道徳や規則をルールとするしかないわけで、集団行動の規範は、害さないほうが誰もが安心できる、ということです。逆に、内輪の者だけが知っているルールが支配している社会では、表に出ないそのルールを知らない者が弾かれるシステムとなります。阿吽の呼吸で物事が成り立つ「世間」は、よそ者を除外するのに適しています。
 
もちろん、その町を非難しているわけではありません。福岡の嫌なところも、他の地域に行くと感じることがあります。それは、自分の嫌なところ、と言ったほうがよいかもしれません。けれども、その町にある薬局チェーン店に入ったとき、やはりここは別の土地なのだ、と強く感じたことがありました。福岡にもそのチェーン店はあります。というより、こちらが本店です。レジに人の列ができはじめると、新しく横のレジを開くことがあります。そのようなとき、「お次の方こちらのレジへどうぞ」と案内するのは、ある意味で親切です。そして福岡ではそのような場合、例外なく、店員がその人のカゴをその別のレジのところにまで運びます。多分それは当然だと思います。しかしその町の店員は、顔ではにこにこ笑って「こちらへどうぞ」と言いながら、カゴを運ぶ気配は微塵も見せず、背を向けて向こうのレジで待っているのでした。私はその様子を見ていて、これはありえない、と思いました。思いカゴを自分で向こうに運ぶ間に、こちらでは次の順番が回ってきそうでもありましたから、何のために客が運ばなければならないのか、理解できませんでした。しかし店員は、そのあたりに全く無頓着なのでした。
 
偶々なのかもしれません。が、車や歩行者の現象と共に、なんだかつながって理解できるようなものを私は感じました。
 
先週から私は、礼拝の聖書箇所で出てきた「寄留者」ということについて考える機会が与えられました。私はそれを「よそ者」と解しました。「よそ者」と称する側は、内輪であり、親しく通じている仲間です。仲間の間でだけいい顔をしておいて、なじまない人に対しては人間扱いをしないかのような態度、それは決して、他人事ではありません。私たちはえてしてそうなのです。いえ、それは失礼な言い方でしょう、私は、と言うべきでしょう。
 
博愛と呼んだり、兄弟愛と呼んだり、聖書の考え方は与える愛だなどということがあります。けれども聖書の愛は、元来仲間内の愛でした。だから、ファリサイ派の愛は仲間に対してだけでしたし、善きサマリア人の話も成り立ちました。ひとを差別するのもこの意識の下でのみあることでしょうし、世は常々そうなのだと言ってしまってもよいと思われます。そもそも十戒で「殺すな」とありながら、敵を「殺せ」と命ずる神です。その律法に従えば、美辞による愛などありえない、また必要であるはずのない理想なのでしょう。敵を憎め、という文言が律法にあるとかないとか探すまでもなく、それは律法の大前提で誰もが認めていたことだったに違いないのです。
 
だからまた、戦争も肯定されます。平和は神がもたらすばかりです。その大前提の支配する世界に、イエスがもたらしたものは何だったでしょう。あまりにも、違いすぎます。超えています。驚異的です。
 
内輪の愛を否定はしません。しかしまた、内輪の愛を全面肯定もしません。そのように開き直り、敵を断固として敵でしかないものとして、よそ者であり心通う可能性のない憎むべき敵だとして、決めつけたくはないということです。ひとは、変わることができるのですから。神が変えることもできないと、ひとが決めつけるのはよくないと思いますから。
 
「平和」は、争いのない状態を言うことではなく、まして「戦争」の反対というわけではない、とよく言われます。聖書でいう「平和」概念は、少なくともそのようなものではないと捉えられています。表向きにこにことしているだけのことが平和なのではないわけです。平和はそのため、聖書では「和解」というキーワードで捉えるべきだ、と言われます。さらに言えば、平和というのは関係概念というフィールドで探したいと思うのです。もちろん、対立関係でよいのではありません。信頼の関係、信実に結ばれた関係、平和というのはこの関係があるときにのみ、成り立つ状態ではないでしょうか。よそ者という眼差しで見ず、兄弟姉妹そして友という関係で互いを見つめ、手を伸ばす、そこにしか、平和は実現しないのではないでしょうか。
 
口先ではなく、行いと真実をもって、愛と呼ぼう。私たちは、イエスの言葉を、実感を伴いつつ、味わう経験を重ねていくのがよい、と私はよく思います。



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