私の中にある痛み

2018年8月21日

キリスト教にある黒歴史。権力と結びつき、あるいは権力そのものを振り回し、この世を支配するようになった、その歴史。神の代行というような、極めて人間くさい、人間中心の考え方を自己義認のように用いて、いつの間にか、福音書の中でイエスが徹底非難している、ファリサイ派や律法学者と同じようなことを、否、それ以上のことをしていくようになりました。しかも具合の悪いことに、そのことに気づきもしないし、気づいた良心を押しつぶしていきました。
 
こうした歴史に、無頓着な「クリスチャン」でありたくない、と思っています。いや、歴史は知っているよ、と嘯いたところで、自分とは関係のないことだ、と考えるようなことはしたくない、と。あの戦争は自分とは関係がない、と思わないのと同様に。
 
他方、型にはまった教会のすがたを、軽いタッチで批判するようなことも、したくないとは考えています。しているのかもしれませんけれど。自由という切り札を自ら生み出した近代思想の申し子となり、人間組織としての教会ばかりでなく、聖書をも、あるいは結局神をも、高い視点から見下ろして客観的対象のように取り扱う姿勢。その瞬間、見ている自分は常に例外となり、責任をもたないものとなり、そしてつまるところ、神になっているというあり方を、省みないではおれません。
 
私たちは、この両つの狭間で、道を探しています。そこには、キリストしかいないのではないかと見つめつつ。私たち人間が、事を決めるのではなく、しもべであるしかないという意味を、また思います。イエスが、弱い貧しい者のところに、弱い貧しい者となって、へりくだって救ったことを、肝に銘じて、そこから離れたくないと願います。そしてその道を、狭い道を、掻き分けるように探し、光に導かれていきたい、と。
 
クリスチャンである、と自称することや、組織に属していること、また知識を持ち、オピニオンをリードするようなことすらできること、そこにはあまり価値を置くことができません。神の言葉はひとを生かすのであり、ただ自分も生かされて、照らされて、その光はこちらから発しているのです、と指し示すことができたら、それが精一杯のことであるかもしれません。
 
長い文章を最初から読まない人が多いことも承知の上で、しかし、あなたに与えた言葉を言わないでいるとあなたの責任となるが、あなたが告げている以上は聞かない者に責任が問われる、という神の原則に立ちながら、いい気になりがちな人々に、神からの光に気づいてもらえればと祈りつつ、淡々と、取り次いでいく役割が与えられているとすれば、自分の役割のひとつなのだ、と喜んでいるわけです。



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