未来のミライ

2018年8月1日

映画「未来のミライ」を観ました。細田守監督のアニメ作品は、メジャーなものは皆(テレビ放映を含めて)観ていますので、タッチは分かるのですが、今回は少し何か違う空気を感じました。
 
もちろん、ネタバレは書かないつもりですので、まだご覧になっていない方も、安心してくださいね。
 
どうして違うのか。それは、監督本人も口にしていましたが、子どもが生まれた、つまり父親になったということにあると思われます。家族が、いわば血の繋がらないパートナーだけでなく、そのパートナーと共に、つながっていく子どもが生まれたということ、それは、父親にとり、とてつもない大事件です。私も、あの日の朝のことは忘れませんし、あの時見た風景は、今でも再現できるほどです。「そして父になる」の福山雅治も、その後実際に父親になってから初めての今回は、きっと全然違う感情の中に置かれたのではないでしょうか。
 
さて、本作品の評判ですが、同じ異世界体験ものとしても、これまで細田作品が発展してきた、スケールの大きな変貌ものに比べると物足りないと感じる人もいるらしく、また娯楽作品としての期待から外れているという声も聞かれています。
 
恐らく、家族(構成)の中の、どこに自分を位置づけるかによって、映画の見方は変わってくるのだと思われます。私はたぶん「おとうさん」だったでしょう。もう少し子育ては自然にやってきましたし、あんなに甘くはありませんでしたが、気持ちは分かる気がしました。妻は、くんちゃんでした。あのどうしようもなくわがままで「いやだ、いやだ」の主張の激しいところが重なっていたようです。そして、映画のやはり優れたところは、家族の中のどこから見ても、ひとつの流れにつながっていくところでしょう。
 
映画は、ひとつだけ客観的な見方があり、そして客観的な評価をすべきものではない、というのが私の持論です。それより自分はその映画の中のどこにいたか、映画から自分がどう問われたか、自分はそれによりどう変わったか、変わっていこうとしているか、そんな体験があればそれでよいのだ、と。そして、これは聖書を読む姿勢と基本的に変わらないというふうに、その後気がつきました。
 
ただ、家族ものであれば誰もが安心して観ることができる、というわけではないことは、気にしておくべきだとは思いました。映画に描かれていたのは、経済的に何も不自由していない、若い幸せな家族です。両親も健在で、くんちゃんからみて曾祖母までいます。おもちゃはふんだんにあり、くんちゃんも、映画的に意味があるにしても、そうとうにわがままです。わがままができる、恵まれた環境にあります。この設定の中で、家族のつながりのようなものを描いたとき、なじめない人は、少なからずいるものと思われます。
 
それに、親から酷い目に遭ったというような体験をもつ人の場合、このテーマは厳しすぎます。私はたぶん、(経済的にはどうかなとは思いつつも)いま幸せだから、楽しく観られたのだろう、というふうに捉えています。家族問題に苛まれている場合には、目を細めて観ることの難しい映画であった可能性が高いような気がするのです。
 
これは教会や聖書も、無関係ではないでしょう。「天の父なる神さま」と祈れない人がいるかもしれません。教会は「家族」だというフレーズを聞く度に耳を塞ぎたい人がいるかもしれません。歌うことで辛い目に遭ってきた人は、「賛美しましょう」のプログラムの度に苦しみが増すかもしれません。
 
そんなことまで気遣っても仕方がない。乗り越えなければ。そんなふうにお思いの方も、案外いらっしゃいます。理屈はそうですが、それは私の目から見れば、あまりに愛のない態度です。かつて私がそういう考え方をしていたから、愛がないのだと言えるのです。いまもそうかもしれませんが、初めて神に祈ったときに、自分の考えていた愛がでたらめだったことの悔改めだったわけで、また自分の思い描く愛なるものについて、千もの歌詞を作ってきたわけですから、ここは強く言わせてください。
 
ミライちゃんのように、未来の教会からいまの教会を見にやってきて、成長を助けてくれるという存在があったら、もう少しいい教会にいまなれるかもしれませんね――いえ、実はそんな存在が、ちゃんといるのです。それを口にするのは、無粋ですので、やめておきますね。気づきましょう、その方に。



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