翻訳は難しい

2018年7月29日

ルカによる福音書
22:25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。
22:26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
22:27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
 
今回注目するのは、26節にある「仕える者」と27節の「給仕する者」です。どう違うのでしょうか。もちろんここでは同じものを指していると、普通に読解すれば、お分かりでしょう。しかし新共同訳で別の語にしているこれら2つの語は、実はギリシア語の原語は同じなのです。つまり、仕える者=ディアコネオーであり、給仕する者=ディアコネオーなのです。多くの邦訳が、どちらかに統一しているのに対して、新共同訳と口語訳、そして以前の新改訳が、このような訳仕分けをしています。
 
日本語としてこなれた読みやすさは、訳し分けた方であるかもしれません。しかし同じ原語を別の日本語にした場合、邦訳の読者は、それらが元々同じ語であるということに気づきません。シャレとは違いますが、同じ語が使われているというところに、意義がある場合もあるはずですから、これを隠してしまうというのは、如何なものでしょう。
 
訳には、直訳と意訳とがあると言われます。直訳だと原語の使われ方をよく伝えますが、訳した言語からすれば理解しづらい場合があります。意訳だと、訳した言語にとっては無理なく読めるのですが、原語のニュアンスや意図を伝えにくくなります。こうした問題は、たとえば今一番新しい『NEW 聖書翻訳 No.4(2018.7)』でも、多くの霊を挙げて考えられていました。難しい問題ではあります。この点を意識して訳したと言われているのが、田川建三の新約聖書で、できるだけ同一原語は同一訳に、という方針を提示しています。それでも、どうしても訳し分けないといけないところがあるといいますから、やはり本当に難しい問題なのです。
 
同じ「愛している」と見ていたら原語では違う(ヨハネ22章のフィレオーとアガペー)とか、同じ「命」と訳出してあるものの原語では違う(ヨハネ10章で捨てる命はプシュケーだが与える・受ける命はゾーエー)とか、よく言えば誤解を招く、率直に言えば考えられないような配慮のなさを覚えることがあります。新共同訳の新約部分は、とくにその直前の「共同訳」の評判が悪かったので急遽作り直したときの混乱が残っているとも言われます。
 
ほかにも有名なのが、「結ばれて」。これは殆どが、英語なら「in Christ」を「キリストに結ばれて」と訳しているわけで、基本的なカトリック側の主張が通っていると思われるのですが、私はどうにもついていけません。パウロが、時間や空間の制約を離れて、キリストと強い関係の中にあることを示すと捉えるのがよいと考えると、そのニュアンスを含まないわけではないのですが、「結ばれて」に特定してしまうと、他の意味合いを拒むことになってしまいます。パウロがよく使うこの表現は、他では「キリストにあって」と訳されており、考えてみれば不思議な表現なのですが、その味わいは読者各自が受け止めればよいことなのであって、世話焼きの人に「結ばれて、と訳さなあかんで」とお節介されなくてもいいと思うのです。
 
新共同訳だけで深く読み込んでいくと、肝腎なところに気づかせてもらえなかったり、原語とは違う日本語のイメージに染められてしまったりする場合があります。原語にあたる手間をかけずしても、他の訳と比べて読むといろいろ視野が広くなることでしょう。また、こうした問題に細やかな解説書があれば読むのもいいし、さらによいのが、説教集です。よい説教者は、原語のこうした違いを調べていますから、誤解のないようにきちんと語ることが多いのです。また、その違いから与えられる神のメッセージを提供してくれることもありますから、解釈の道を学ぶこともできます。もちろん、その説教自体から神と出会うすばらしいひとときが与えられるのが最高なのですが。
 
回り道となりました。ディアコネオーというギリシア語は、ディアコノスという名詞形になって、奉仕者や給仕者と訳す場合もありますが、後の「執事」という役職になったのがこの語です。日常の事務的なことを司る担当ということで、理想ばかり描かず現実的に対応することが求められています。「神を信じて、すべてを献げ、与えれば与えられるのでーす」と全部手放してしまったら、教会は明日から成り立たなくなるでしょう。世知辛く、信仰的ではないように見えるかもしれませんが、教会経営をこの世の知恵を用いて保持していくような「汚れ役」を背負うのが執事というものではないでしょうか。使徒言行録でもそうですが、食卓の奉仕者のように見られることがあるのも、食事配分や金銭管理を担っていたせいではないかと思われます。
 
似た立場のように見えますが、僕(しもべ)と訳される語があります。これは「ドゥーロス」で、露骨に「奴隷」のことです。これについてはまた改めてご紹介することにしましょう。
 
なお、この「食卓」というものは、いまと習慣や文化が異なりますから、近世に描かれた絵をイメージするのはよくないと言われます。椅子に座るようなことはなく、片肘で体を支えて横になり、もう片方の手で食べ物を取り、口へ運ぶというスタイルであったのではないかと考えられています。しかし身分やその場の状況などでいろいろ違ったかもしれず、案外こうした衣食住についての基本データが私たちには欠けています。いったい主イエスと弟子たちの旅は、衣食住という点で、また経済的支援という点で、具体的にどのようであったのか、私はたいへん関心をもっているのですが、あまり感動的な解明には出会っていないような気がしています。知識のある方はどうぞ教えてください。



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