私を正しいとするならば

2018年7月22日

ドロテー・ゼレという女性神学者がいました。私も知ったのは最近です。社会運動、とくに平和運動に対する声には力がありました。その信仰教義においては疑問を呈する人がいましたが、私は着眼点についてはその指摘を受け止めたいと思っています。
 
ゼレは、ヘロデが現代にいると言います。なぜなら、兵器を民間人の地に打ち込んで、子どもたちを大量に殺しているではないか、と。難民の子どもたちをつくり、飢えさせているのが戦争や争いであるとするなら、それを支持する人はすべてヘロデではないのか、と。
 
私は反論ができません。
 
このような鋭い視点は、私たち自身を安全なところに置くことがなく、「それはあなただ」とダビデを指さすナタンの声として受け取るしか仕方がないと考えるのです。そうすると、ヨブを非難する友人たちも、たくさんいるような気がしてきます。不幸な目に遭った人に、あんたにも悪いところがある、と傍から冷たい言葉を投げかけるような者が、いっぱいいるではないか、と。
 
かつて、黙示録では、大敵バビロンをローマ帝国になぞらえました。イスラエル民族を捕囚の憂き目に強いたバビロニア帝国でしたが、たちまちそれは滅びました。同じように、キリスト教徒を迫害するローマ帝国も、いまに滅びる、と言いたい狙いがあったのではないかと思います。しかし、そのローマ帝国がキリスト教を受け容れ、なんと国教にまでしてしまいました。キリスト教勢力は、政治権力と結びついて、世界を支配する側にまわっていくことになります。それはキリスト教をひろめるのには益となりましたが、果たしてそれで良かったのかどうか、単純には決められません。今度はかの黙示録のバビロンを、イスラムのことだ、と読むようになったのです。
 
常に、自分たちを圧迫する敵を、私たちは悪者に仕立てます。聖書にある悪魔の勢力は、自分たちの敵です。そして自分はつねに神の側にいる、正しい存在として自負の念をもち行動します。それが信仰なのだと言われればそれまでですが、いつでも自分を自分で正しいとする前提であってよいのかどうか、ほんとうはよくよく省みなければならないのではないでしょうか。
 
私はキリストに属する者。私に逆らう者は反キリスト。この図式がすべてのスタートにあるとすれば、そう考える誰もが、自分は神の正義のもとにある、と信じて疑いません。戦争が、それぞれの正義のぶつかりあいだとするならば、この精神からは戦争が容易に生まれることが分かります。
 
また、個人に向けて権威の側がこの正義を自認することも多々あります。魔女狩りや思想の取り締まりは、ひたすら権力の気に入らないものを悪魔だと断じ、また人心を集めるために共通の敵を作る技術の結果でもありました。いったいこうした歴史を内にもつキリスト教の組織が、現在の独裁政権を、安易に非難することが、当然であるとしてよいものかどうか、考える余地がないでしょうか。
 
とくに思うのが、自分たちのしていることが、ファリサイ派や律法学者のしていることと同じではないか、という問い。「考えすぎだよ、気楽に行こうよ」との声は不要です。福音書を読めば読むほど、この問いは現実味を帯びるように思えてきます。
 
それに対して、キリストのしたことは何であったのでしょう。キリストは、何をしていたのでしょう。
 
被災地で倒れるほどに働かれている方々、ほんとうに申し訳なく思うほどに、ここから見守っているばかりです。キリストの業が続けられるように、祈ることしかできませんが、弱い立場に追い込まれた方々の、力になってください。また、目の行きとどかないところで助けを求めている人のことを、気づいてあげてください。キリストは、きっとそういうことをなさっていたと思います。



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