科学と教会

2018年7月20日

中学生の理科の授業の最後のほうで、自然界のバランスについての学習があります。食物連鎖のピラミッドから、数の多少、そして突然にある層の生物が増えてもやがてまた元の姿に収まるものであろう、という過程の理論を学びます。
 
けれども、そのバランスを壊す生物がある。なんだと思う? 中学生に投げかけますが、自信をもって答える子はいません。聡明な子は、気づいているかもしれませんが、まさか、というところでしょうか。それなりに考えさせておいてから、解答します。
 
――人間です。
 
人間を食べる者はいない(進撃の巨人は別として)し、他の生物のように数の増減バランスの過程をとらず常に増え続ける。おまけに、資源を消費し、空気や海を汚し、緑を減らし、環境を破壊する、唯一と言ってよいほどの生物。
 
人口が一方的に増えていく人間。それは時代が進むにつれて顕著になりました。そもそも増えていく要因は、ピラミッドの頂点にある者として可能性があったものの、それが一段と加速してきたのがこの二千年の歴史でありました。それが、どうやら減少に転ずる。これを日本の報道機関は、政府に倣ってか、ひたすら「危機」と呼びます。果たして何が危機なのでしょうか。
 
経済的な視点、いっそう豊かでものに溢れ楽ができる生活ができる、あるいは他国との経済競争に勝つこと、その原理が支配しているところからは、人口減少は危機にしか映りません。でも、本当にそうでしょうか。他の可能性はありえないという前提からすべてをスタートさせるのが、論を通したい者の作戦ですが、本当にその前提は唯一の根本原理なのでしょうか。多くなりすぎた人間が減少し、「経済発展」という免罪符について再検討し、ファッションではない「エコロジー」を原理として「慎ましく」生きていこうとする方向性は、絵空事に過ぎないのでしょうか。
 
その問いについては、私たち一人ひとりが考える問題だと思います。私の考えを皆さまに押しつけるつもりはありません。
 
考えてみれば、原発についての議論も、この点において噛み合わないものではないでしょうか。一方は、ひとたび事故が起これば壊滅的な影響を与えるリスクを、自動車事故などと同列に論じつつ、経済的原理を唯一の真理として構えてから話を始めるので、相手の言うことを非現実な画餅としか考えない。他方は、経済を最優先の事柄とは捉えない覚悟をするという前提から、そのような轍を踏もうとはしない。もしも立っている前提を変更できたら、もっと対話が可能になることでしょうに、互いに自分こそ(暗黙の前提の相違に気づこうともしないで)真理と称してぶつかるなら、話は確かに噛み合わないでしょう。
 
いま、生活水準を下げる覚悟ができる、という意志を確認したとしましょう。実際そういう方針が取れるかどうかという点はさておき、思考実験です。生活レベルを下げることに耐えられるのか、それはしかし検討の価値があるでしょう。一度甘い汁を吸った者は、それのない時代に戻ることはできません。
 
けれども、ここのところ頻度を増してきた、地震や水害の大規模な被災を思うとき、私たちはそこに「復興」という言葉を使っても、そう簡単に戻りはしないことは覚悟するようになりました。果たして回復はできないが復興はできるのではないか、といった議論もありました。もちろん災害無き時にそのまま戻ることはできないでしょう。経済水準が数字の上で取り戻せたとしても、メンタルなところに、戻れない門ができてしまっていることは確実です。そして、いなくなった人はもう戻らない。
 
ほんとうに生きるということだけが必要な事態を経験したら、最も大切なものは何かに気づくということがあるそうです。小学生たちに大切なものは何かと問うたとき、「いのち」という答えが多く返ってきました。学校でそのような(教訓的な)話があるのだろうという背景は感じましたが、子どもたちが、そういうところに一つの道を握っていることは、悪いことではないと思いました。
 
生めよ、増えよ、地に満ちよ。創世記で人が祝福されていた時のメッセージ。人はこれを、人口増加の根拠にすらしました。命についての考え方も、創世記は様々に考えさせてくれます。律法にあるように、命は血にある、とするのはまた科学的に、あるいは思惑的に、いろいろ調べてみる価値のあることですが、その動物の命を無数に切り裂いてきた神殿祭儀の記事からは、血のりや生臭いにおいが、聖書から漂ってさえきそうな気がします。それほどの犠牲をすべて担ったイエスの十字架刑が、どれほど酷いものであったのか、そして重いものであったのか、改めて覚えます。
 
この聖書を、もしも人間の腹に仕えさせて神をしもべとし、人間の都合を目的として用いると、恐ろしいことになります。命を支配し、自由に取り扱えるということを人間が自己義認してしまうと、いったいどうなるのか。あるいは、これまでそのためにどうなってきたか。歴史的な出来事について知識の多い方が教会には多いようにお見受けしますが、もっと科学的な観点をきちんと説明できる牧師や伝道者が活躍してほしいと期待します。渡辺正雄さんや村上陽一郎さんのようなオピニオンリーダーが、もっと必要だと思います。柳瀬睦男さんのように司祭でありつつ物理学者というのもステキでした。
 
ともすれば、ちょっとした科学についての新聞記事しか引用できず、極端に護教的に聖書の色に塗り替えて科学を自己流に解釈してしか語れないとか、聖書的にそれは危険だとさも意味ありげに言うものの実のところ本質を考えてなどいないとか、要するに、「科学哲学」的な素養が全くない中で、果たして聖書がどのように語れるのか、私は少し疑問に思います。つまり、時代はすでに、それでは福音が語れない時代になってきているかもしれないのです。
 
もちろん、細やかで想像豊かな社会学的な視点、またこの世界の片隅で起こっている現実から目を背けないような政治経済的な視点も大切です。グティエレスで特に知られるようになった解放の神学を呼びかけたり、ドロテー・ゼレのようにいま世界で大人が聖書を片手に子どもを殺す論理を作っていないかと問い詰めたりする人がいないと、人間はなかなかはっと気づくことがないからです。気づいてしまえば、欺瞞を押し通せるのか、悔い改めるか、それぞれの人が決断していくことになるでしょう。誰かが、事態の改善に力を注ぐことでしょう。
 
しかし、科学については、私たちは安易にその恩恵を受けているという負い目のために、しっかりした批判ができないでいます。教会で資源を浪費しても気遣いません。車で通うことに問題を感じず、ひどくなれば、これはすべて神に赦されているから教会は何をしても構わない、という自己義認さえ持ち出します。いえ、科学だけではありません。日曜日に教会へ人が皆来たらいい、などと口先では立派なことを言うのですが、日曜日に働く人がいなければ教会にも来れないし、教会に弁当を届けてもらえない、またコンビニに買い足しに行く、そんなことに、何の痛みも覚えずあたりまえのこととして見過ごして、あまつさえ利用しているのが日常ではないでしょうか。
 
だからといって、科学文明を安易に取り入れなかったアーミッシュような生き方を、すべてのクリスチャンがとればよい、などと主張するつもりもありません。但し、それはひとつの選択肢となり得ましょう。
 
もちろん、これは私はそうでない、と言いたいがための言明ではありません。まさに私がそうだから、だからこそ言っています。まさにこうしてパソコンや電気とウェブ・ネットワークの恩恵の中でこうしているのですし、横には扇風機もあるし、ガスも水道も片手で自由にいくらでも使える環境にあるのですから、文明批判などできる立場ではないのです。たとえハイブリッドでも、車を走らせれば地球を苦しめているのだという、そんな生活をしているのですから。
 
人間こそ、いなくなればいい生物だ、とまで言ってしまったその後で、ではどうして人間は生かされているのか、と問うときにこそ、そしてもしかするとその時初めて、罪の中にある自分がいま生かされていることのものすごさということを思い知るかもしれません。福音とは、そういうところに、エッセンスがあるとは言えないでしょうか。
 
そしてまた、考えなければならない問題があります。それでは価値ある人間だけを遺すように選別をすればよいのか、といった極端な議論です。優秀な民族と劣等な民族という対比から虐殺を行った歴史は、年数を経ても決して私たちから遠ざけてはなりません。人間が多いとか、経済の停滞とかいった話題になるときまって、それではおまえは心身障害者や高齢者が死ねばよいと考えているのか、と、したり顔で迫る人が出てきます。さらに、それならおまえがいなくなれよ、おまえの気持ちは満たされるんじゃないか、などと言ってくる人も。
 
私たちはイエス・キリストを見つめなければなりません。改めて、福音書を中心に、イエス・キリストから目を離さないようにしましょう。イエスはどう行動したでしょうか。何を言ったでしょうか。私たちは、いったい何を福音として伝えているのでしょう。福音とは何なのでしょう。へたをすると、私たちは、ファリサイ派をにこにこさせるような説教を語り、教会運営をしていやしないか、自らを問い直す営みが、求められているのかもしれません。自分は常に正義の味方なのだ、と思い込んでいないか、それはイエス・キリストから目を離したときに陥る罠であるからです。



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