証人

2018年7月15日

ステファノの殉教の場面に「証人」という語があります。ここでは、ステファノを殺すことに同意した、偽の証人たちのことを指していますが、聖書では「証人」という語はひとつの大切な概念となりますので、ここでの意味とは違う形で「証人」について考えてみることにしましょう。
 
聖書は時に法律用語や法的な手続きが説かれます。疎い私にはさっぱり分からないのですが、そもそも旧約聖書の主要部分が「法律」(洒落て「律法」なんて訳していますが、他の言語では法律の語そのもの)であるからには、法についても少し学ぶ必要があるかと思います。
 
そして聖書も旧約・新約といい、その「約」が「契約」という法的概念であったことは、改めて注目すべきことだと思うのです。
 
ここでリンチが行われていることについても、議論があります。そもそもイエスの十字架について、法的な観点からして、ローマの死刑を適用した背景に、ユダヤ人が勝手に死刑を執行してはならないとされていたような記述があるからです。
 
不快を覚えさせないためにも、露骨な表現はできるだけ避けますが、ヘブル社会では旧約以来、死刑は基本的に「石打ち」でした。殉教したステファノも、これを受けました。古くは火刑や刺刑の規定もあります。
 
ローマの属国となったこの新約の時代、ユダヤに王は置かれましたが、完全にローマの傀儡政権でした。ローマ総督の許可なしには、死刑執行ができなかったとされています。そのため、イエスはいわば政治犯としてローマの裁判の席に出されました。ローマ帝国は政治犯に対して最大のの厳罰を以て臨んだからです。つまり、比較的各属国の自治やその文化を緩やかに認める一方で、帝国への反逆だけは徹底して弾圧するという仕方で、統治していたことになります。
 
しかしこのステファノはローマ帝国を通さずに、死刑とされました。イエスの場合と異なり、今回は政治的な背景を根拠に罪を訴えることができなかったために、旧来のユダヤ律法の世界で片づけられたということでしょうか。こうした私刑(リンチ)はローマ帝国支配の下では認められていたのではないのでしょうが、案外暗黙の中に置かれていたのかもしれません。あるいは、ユダヤの司法の乱れがあったのか。このあたりは、優れた研究があるかもしれないので、定説があれば教えてください。また、調べてみてください。
 
前置きが長すぎるのですが、今回の焦点は「証人」です。もちろん、十戒にも関係する「証人」は、法を適用するときには欠かせない存在です。偽証をしてはならない、としつこく告げているのは、それだけ偽証が多かったことの証拠でもありましょう。証人の証言は、それ以上に確かめようがない場合が多いからです。
 
ステファノを殺すための陰謀も、この偽証によってなされた、と使徒言行録は記しています。このときの「証人」は、ボアズがかつてルツを引き取ったときのようにな悠長なものではありません。人の命や組織の命運にもかかってきます。いわゆる「迫害」というものも、いわば偽の証人の訴えが広まって、それを適用した結果起こるものだとも言えます。
 
また、古い協定では、神が自分たちの証人である、という言い方で契約を交わすということもありました。ヤコブとラバンとの約束がたとえばそうです。
 
新約聖書では、ユダヤの律法規定に関して「証人」という語が、福音書を中心によく用いられます。が、使徒言行録が多く用い、中でも「キリストの復活の証人」という意味で使われる場合が目立ちます。パウロ書簡では、その意味では使われていません。そして黙示録にも現れます。
 
ギリシア語で「証人」は「マルテュス」といいますが、これが後に英語で「martyr」となりました。すると意味は「殉教者」となります。この傾向は、実は新約聖書自体にあって、イエス・キリストの証人となるということは、それが迫害を受け、命を落とすということと直結していたものと思われます。周囲の人々からは独立して、自らの信仰を貫く生き方を、信仰の勇士として描くヘブライ人への手紙のいわゆる「信仰者列伝」も参照すべきでしょうか。
 
「証人」と書いて、訓読みで「あかしびと」と読むことがあります。クリスチャンはキリストのあかしびとである、と。キリスト、この方はこういう方ですよ、こんなことをしてくださいましたよ、私がそれをあかしします、私はこうなりました、このように変わりました、あなたにも同じようにしてくださると言っています、これからこうすると約束してくださっています、イエス・キリストは真実です、語ったことを必ず行います、自分の罪を知り、認め、包み隠さずイエスの前に差し出すとき、こんなことを私にしてくださったのです、こうしたことを「証言」することが、私たちに求められています。それをどのように言おうかと悩むことはありません。必要なことは、必要なときに、聖霊が教え、助け、導いてくださいます。聖書は、そのような保証をしています。
 
私たちが偉くなるのではないし、私たちの考えを他人に押しつけるわけではありません。ただ、この方なのですよ、とイエス・キリストについて証言することが必要であり、私たちはその「証人」として振る舞うだけで十分です。中には、その結果が「殉教」になる場合があるにしても。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります