教会と手話

2018年7月12日

ろう者の間において、キリスト教への関心は、聴者の場合よりも高いように思われます。理由づけはしませんが、福音を聞いてすうっと信じるような心の人に幾人も出会いました。教会が一般にこうした人の存在に、かつてはあまり気を払っていなかったのは残念です。ろう教会として展開してきた力は強いのですが、聴者の教会にとり、「語る」説教がそのままではろう者には全く届かないものとなっていました。ろう者を受け容れる方法が分からなかったり、酷い場合にはろう者をただの障害者として、相手にできないと見ていた可能性もありますが、これは単なる想像ですから、実のところどうなのか、私は知らないとしか言いようがありません。
 
近年、手話通訳を取り入れる教会が増えてきました。一般社会でも手話が次第に市民権を得るに従って、教会も動き始めたのかもしれません。すでに各自治体でも、手話言語法が次々と成立し、言語として備えなければならないような時代になってきましたから、教会もやはり意識が変わってきているというところでしょうか。
 
そのため、通訳まではどうかと思えても、ろう者とのコミュニケーションをとるためにも、手話に興味をもつ人も増えてきました。とてもよいことです。賛美を手話で歌うことのすばらしさについて知る人も増えてきました。ちょっとした挨拶でも、ろう者と交わることは本当に大切なことだと思われます。こうした学びが進めば、聖書を手話でどう表現して読んでいくか、ということが当然知りたくなります。聖書の用語は、一般の手話教室では対応できないものが多くなります。「イエス・キリスト」すら、手話入門の本にはありませんし、もしかすると通訳者でも知らない人がいるかもしれない虞があります。
 
よし、教会で使う聖書の手話を覚えたぞ。教会に来ているろう者に、聖書について伝えることもできるようになった。これは大いなる前進です。こうして、マイノリティとされる人々の味方になっていくという意識は、必要なことであろうと思われます。
 
私も当事者と交わり、また書物でもろう者の歴史を知るなどして、次第にろう文化やろう者の置かれた立場などについて、深く知るようになりました。しかし、それでも分かったふうに思うと、とんでもないと反省させられることがあります。
 
先日、子どもは電車が好きですよねという話になりました。そのろう者は、補聴器で微かな音の響きを確認することはできます。それで教会でも音の響きを頼りに、賛美が大好きで、もちろん手話での賛美ですが、賛美にはなかなかの知識もあります。車では大きな音量で賛美歌をかけて聞いている、とまで言うのです。ですから私は、あのうるさい電車の音についても、いくらか聞こえると言えるのではないかと質問しました。すると、分からないという答えが返ってきました。これは意外に思えました。警報機や電車の通過音も、かなりの騒音です。しかし、分からないというのです。それは、たとえ何か音がしているというところまでは分かったとしても、「方向」が分からないので、それが何であるかの認識ができない、という説明でした。
 
何だろうと見回して、見えた方向に電車があることが分かると、ああこれは電車の音だったんだ、と初めて認識できる、というのです。つまり、目で確認できたときに初めて、そこに音があったのだということを知るというわけです。コンサートでは、目の前で楽器を弾いていますから、それを見つめている限り、いま演奏が始まったと分かるし、歌手が口を閉じればいまは間奏だと分かります。見ている情報が最初にあるから、それに応じて音があるかないかなどを判断できるのです。いきなり音が感じられたからと言って、それが何を表しているのかは、見るまで分からない、これがろう者の感じる音情報の意味なのでした。
 
その方はまた、先週起きた大ニュースについて、礼拝でそのことに触れられるまで、全く知らなかったと言っていました。忙しい仕事の毎日なのですが、通常私たちはテレビやラジオからいやというほど大ニュースについては知ります。しかし、忙しいろう者はそれだけ情報から閉じられたところにいるということを改めて感じました。また、普通ならば職場で誰かと話をするときに、そうした話題が出て来るので、知らないまま一週間過ごすということは起こりにくいのですが、この方は職場にろう者は一人しかおらず、誰かが手話を覚えてくれているということもないので、よほど大切な仕事の指示だけ筆談してくれるが、通例は朝礼すら唇を読むしかないのだという環境にありました。つまり、仕事に通い詰めであっても、一週間、誰とも何も話をしないで過ごしている、ということになります。家に帰れば奥様がいらっしゃいますが、その間で話す内容はそうそう社会的なものではないでしょう。こうして、誰もが知っているであろう大ニュースも、全く知らずにいるということが起こるわけです。陸の孤島のように、情報に関して、ろう者は閉ざされている場合があることになります。
 
聴者の私は、それに耐えられる自信がありません。外の世界とのコミュニケーションがまるでないかのような生活。この方が日曜日に教会に来る、そこで手話通訳をしてもらえる、また手話をわずかでもできる人と、何気ない世間話ができる、そのことにどれだけ大きな意味があるものか、改めて目を開かせて戴くほどに感じ入る思いがしました。牧師の説教のあそこが良かった、初めて知った、そんなことを語り合うことの重大さは、私たち聴者が、世間でもたっぷりとおしゃべりをしていつも誰かとコミュニケーションを重ねて溢れる情報を通りすぎてきた一週間の後で、礼拝に出て、時に疲れてうとうとする、というようなこととは、まるで違う重みを、教会の礼拝メッセージに対して抱いているということが、しみじみと分かりました。
 
ろう者は視覚が頼りです。ものすごく目を使います。情報は基本的に目からしか入りませんから、見て、見て、見て、見ています。疲れると思います。しかし礼拝中は手話通訳者に悪いから、などという理由でなく、終始集中してメッセージを「聴いて」います。それだけ「求めて」、礼拝を、教会を、頼りにして、やってきているその意気込みについては、聴者である私の甘ちゃんかげんを思い知らされるような気がするのでした。
 
聴者が手話を覚え、聖書の単語を覚えたからと言って、それでろう者を理解しているかどうかはまた別問題です。私たちが英語を勉強したにしても、外国の人の置かれた立場や生活事情などを理解したと言えるかどうかが別問題であるのと同様です。自分は英語が得意だから、英語を使う人のことが分かったぞ、彼らの役に立てるぞ、という思い込みは却って迷惑にもなるでしょう。ろう者が朝どうやって起きるのか、訪問者を知るのか、会議が始まることをどうやって知らせるのか、そんなことは最近はよく知られるようになりました。でも、一週間の孤独や情報の遮断の後に、どんな思いで教会に足を運ぶのか、そこへの理解や共感が私たちにあったのだろうか、と思わざるをえません。聞こえない生活は不便だな、と耳を塞いでみる、それはほんのほんの始まりでしかありません。教会にろう者が来てくれたら、私たちはどれほどそれを歓迎しなければならないか、その切実さに気づく、そんな手話理解と福音理解をもちたいものだと自省した私でした。そうでないと、本当の意味で「聞こえない耳を与えられた」のは、ろう者ではなく、聴者の私のほうであることになるのです。



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