国と神の義

2018年7月8日

6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
 
マタイによる福音書の中の有名な部分です。通例「神の国と神の義」と訳されている箇所ですが、文献的に信頼のおける写本にあるのは「国と彼の義」であると理解されています。「国」は「バシレイア」、「義」は「ディカイオシュネー」というギリシア語で、どちらもひとつ押さえておきたい原語です。
 
マタイは「神の国」という言い方を好みません。新共同訳ではほかに12:28「 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と19:24「重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と21:31「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と21:43「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」の四ヶ所に限ります。「天の国」は32節にわたり用いられている(そしてそれはマタイに限る)のと対照的です(単に「国」とすることも多い)。これは、十戒の中の、神の名をみだりに唱えるべからず、というところにひっかかりがあって、たとえギリシア語の「テオス」となってはいても、使いたくない気持ちをマタイがもっていたからだ、とよく言われていますが、だとすれば上記の四ヶ所でのみどうして「神の国」と言っているのか、これが疑問です。定説はないのではないかと思います。
 
6:33の並行箇所であるルカによる福音書の中でも「神の国」とは書かれておらず、「彼の国」と読めるだけですから、マタイ本人は、やはり「神の」を付けていなかったのではないかと推測されます。但しルカには逆に「義」が付いていません。マタイにとり「義」が大切であったということは言えそうです。
 
この「義」すなわち「ディカイオシュネー」は神に献げるに相応しい状態であること、そのため一般的に正義を表します。「ディカイオー」という形容詞がよく使われる形で、「正しい」つまり「罪がない」のように捉えられます。マタイのこの箇所では、神が人に、このようであれと求めているような正しさを意味していると考えて然るべきでしょうか。しかしローマ3:22で「信仰による神の義」のように使われるときには、信仰を通して神が人を義とすることを表していると見ることができます。
 
しかしそれにしても、その「義」というのは難しい言葉です。聖書を初めて読むような人に「天国」ならとりあえず何かが伝わるかもしれませんが、「義」と言っても、まず通じないものと思われます。これが「正義」となると、王や指導者が民を適切に治めるための正義というふうにも受け取れます。私たちがよくいう「正義」です。但し、その場合の「義」は普通「ツェダーカー」でしょうか。「ディカイオシュネー」は、どちらかというと、律法に適合する様子であると見られます。
 
ここでまた「の」(属格)の問題が絡んできます。神「の」義の「の」は何でしょうか。文脈によりいろいろな読み方が可能となることでしょうが、マタイのこの箇所では、やはり神がよしとする義のような意味合いではないかと思われます。
 
しかし私たちは思い起こします。プロテスタントの三つの原理の一つに、「信仰義認」という言葉がありました。信仰によってのみ義と認められる、という原理です。この「義」は、マタイのこの箇所で求められている義とは少し違いますが、本質的に違うものではないでしょう。義と認められることをそれは意味しますから、正しく、罪がないと認められるということにほかなりません。そして、これはやや乱暴な読み方であると言えるでしょうが、このような場合の「義」は、いっそのこと「救い」と読んでしまうと、文がなだらかに自分の心を流れていくという経験をするような気がするのです。イエス・キリストを信じる者は、そのことで救われたと認められるのです。「義とされる」というのは要するに「救われる」ということです。この用法はマタイでは12:37にしかありません。そしてそれは、圧倒的に、パウロ書簡で多く用いられることになるのです。
 
「国」のほうは「バシレイア」でしたが、これは「王」という意味が色濃く現れてくる語で、王とはその地を支配する主人です。従って「バシレイア」も、王国という土地を第一に表す感覚があるのではなく、まずは王の「支配」「統治」を示す語だとされています。どうしても「国」は「国土」をイメージしてしまう私たちですが、そこからまずは離れて読んでいく癖をつけるとよいと思われます。王権のようなものを考えてもよい場合があり、新約聖書ではやはり(息子を含む)「ヘロデ王」が頭に浮かぶかもしれませんが、旧約聖書の列王記でイスラエルとユダに次々と王が生まれ国が続いていく様子を考えてみましょう。国を継ぐというのはとても名誉なことでありますし、土地を譲り受けることはイスラエルの民としての条件のようにすら思われていましたから、この王の支配が移り変わっていくにしても、私たちはそのような国土を受け継ぐ者とされていることも想定しておきたいものです。神の支配する国土があるとして、その一端に住まわせてもらえるということです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ14:3)という言葉も思い起こされます。神の子とされ、神の栄光を受け継ぐ者として迎え入れられることのものすごさを感じ取りたいと思うのです。
 
なお「苦労」と訳されている語は、普通「悪」と訳される言葉ですから、ふつう苦労と訳さない語をここだけそのように訳すと、違ったイメージを読者に与える可能性があります。「不幸」のように訳すことも可能かもしれませんが、邪悪な性質を示す語であることを表に出してよかったのではないかと思われます。
 
さあ、「国と彼(これは神の意味でよい)の義」を私たちは求めるように促されました。私たちは神の支配の下にありますか。ありたいと願いますか。私たちは神の示す正しいことがよいことだと認めますか。それにより、救われることを求めますか。
 
これらにYesと答えるならば、なんだって、不安がる諸物も、加えて与えられることでしょう。福音書はそう告げます。まず第一の原理をどこに置くか、ということさえクリアすれば、きっと。



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