キリシタン迫害

2018年7月8日

先ごろ、ユネスコが「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」を世界文化遺産に登録することを決めました。「潜伏」とは聞き慣れない響きのように思われますが、ざっくり言って江戸時代の禁制時代の信徒のことを表現し、明治期以降を「隠れ(カクレ)」として区別いるとのこと。明治に入り、禁教令が解かれたように見えた後もずいぶんと迫害があったことはよく知られていますが、江戸時代はとにかく信仰をもつ者は殺してもよかった、むしろ殺すことが当然という法体制だったわけですから、いまの私たちからすれば信じられないような有様です。尤も、現代でも、そのような法制度をもつ国はあると言われ、必ずしも昔話ではないと言わざるをえません。
 
歴史上の出来事を単純に仮定したり、比較したりすることは控えなければなりません。そのために命を賭けた人々のことを空しく語るようなことは慎まなければならないと考えます。安易に解釈することは禁物です。が、考えるきっかけになることは、思考実験としてやってみる価値はあるのではないかと提言してみたいと思います。
 
キリスト教信者を江戸幕府が弾圧したのには多様な理由があるでしょうし、最初の秀吉の時期からしても、西欧諸国からの侵略に抵抗するというところから始まったとも理解されるでしょう。民衆に対して、皆と一緒のことをしないという薄気味悪さを覚えるであろうその感情を利用してか、そしてスケープゴートの役割を与えるためか、キリシタンを悪としいじめることで鬱憤を晴らせるような効果があったのも確かだろうと思われます。信長の時代ならまだしも、その後は、キリシタンによって日本の国家転覆が果たせるという状況は見られなかったであろうことを考えると、民衆支配の方便である面が強いかのように見えてしまうのですが、歴史に詳しい方からは、こんな浅はかな捉え方には厳しい批判が向けられるかもしれませんね。
 
日本にいると、なかなかピンと来ないのが、ナチスのユダヤ人迫害です。文化的環境も、国家意識や政治状況があまりにも違うので、実感が湧かないのが実情ではないでしょうか。依然として、キリスト教から見ればイエスを十字架につけたのがユダヤ人だから迫害したのだ、という意味づけをしている理解も多々あるようにさえ見えます。確かに、ナチスはそのような理由で正当化しようとしました。が、そんなことが大衆煽動の(それだけの理由があったことを否定はしませんが)方策であったことは明らかです。ナチス一辺倒にするためには、敵を共通にもつことが一番です。アーリア人条項を、教会の一端が呑み込んでしまった点には慎重な分析が必要ですが、ユダヤ人を悪とする社会理解で、その殺害が正当化されていった恐ろしさを知る必要があるでしょう。そして、ハンナ・アーレントが非難囂々の中で指摘したように、それをやり遂げたのは極悪人ではなく、小心者の凡庸な市民であったという点に、私たちは注目する必要があると考えます。つまり、私たちはいつどうやって、ナチスと同じことをやってしまうか分からない、ということです。
 
それは、キリシタン迫害も似たような構図をもっていたとして考える道があるように思うのです。この比較はもちろん単純に決めつけてはならず、注意が必要ですが、それでも敢えて考えてみたい。キリシタンが迫害されるにはそれだけの理由があった、という理解も、潜在的なものを含めると、色濃いように感じられてなりません。その上で、では何が違うだろうと考えてみると、現にキリシタンを迫害してきた日本の歴史を振り返っても「あれは仕方がなかった」で水に流すような精神傾向があるとすれば、そこが、ドイツとは少しばかり違うところであるようも見えます。「済んだこと」「仕方がないこと」、そのような捉え方が私たちの国にあることは、もっと自覚していてよい。西欧諸国は、果たしてこうした水に流すような考え方でユダヤ人迫害を振り返って見ただろうか、と問い直してみたい。だから、日本人一般についても、ナチスのユダヤ人迫害はひどいね、日本人のキリシタン迫害は仕方がない面もあったし自分とは関係がないね、との空気がより強く感じられるのではないか、とまず声を挙げてみたい。もちろん、繰り返しますが、そう決めつけているわけではありません。そうであるかのように、考えてみることに意味をもたせてよいのではないか、ということです。
 
他方また、あれは先祖たちがしたこと。預言者たちを迫害したことについて、イエスはエリートたちのそんな心理を鋭く突いていました。しかし、エリートたちは、その時の「いま」、まさにやっていたと指摘したのです。実際イエス自身がその標的にされました。これはまた、日本社会では肩身が狭いとはいえ、日本のキリスト教界において、なにがしかの地位を得ている役員や評議員、委員長などの肩書きをもつようなリーダーの方々にも向けられている警告であることを忘れてはなりません。そしてその一声に正義を覚え、容易になびいていく民衆として、私たち信徒の一人ひとりにも責任があるという点を強く自覚している必要があるのだ、と考えざるをえないのです。
 
教会は愛に生きています。誰をも迫害したり、いじめたりしてはいません――その思い込みが、すでに自負となり、自己義認となるかもしれないとすれば、一番危険なのではないでしょうか。傍から見ると、そこに「偽善」が見えることになることを自覚するというのは、無用なこととは思えないのです。



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