サドカイ派

2018年7月1日

エルサレム神殿を働きの場とする祭司の家系に関する上流階級を指す名称です。かつてダビデやソロモンの時代にツァドクという祭司がいたことが、特にサムエル記下15章以下で分かります。この名前に由来する、という説がある一方で、ヘブル語で正義を表す語に由来する、とも言われますが、こうした由来は不確定なものです。
 
マカバイ記と呼ばれる書が、旧約聖書続編に含まれています。ハスモン家とも言われるマカバイ家が、ギリシア文化に染められそうになった、ユダヤ人にとり困難な時代(紀元前170年頃)に立ち上がった頃、新しい大祭司とその一派がユダヤ人たちをまとめました。ここで新約の時代につながるサドカイ派が成立したとされています。ユダヤ社会は、宗教的に統一されてこそ力を発揮する民族社会でした。そのため、宗教と政治との間に区別はもたれず、このサドカイ派は、宗教的にリードする一方、政治権力をも有していたということになります。
 
そこでざっくりいくと、サドカイ派とは、宗教と政治の権力者たち、と見て概ね間違いはありません。これが後に、紀元70年のユダヤ戦争でエルサレムが完膚無きまでに破壊されユダヤ人がエルサレムから散り散りにいなくなる時まで続きます。
 
ローマ帝国は、紀元前63年にユダヤの地方を征服しました。紀元前37年にあのヘロデ大王がエルサレムの王となったときは、ユダヤ人の独立政権ではなく、ローマに服従する王として立てられたのでしたが、この時にも、ユダヤ人たちを支配するためには、大祭司やサドカイ派の力を用いなければなりませんでした。
 
ファリサイ派は、イエスと特に対立したことで福音書でもおなじみですが、このファリサイ派は、律法を熱心に調べるグループからできてゆき、自分たちは立派な宗教者だとしてエリートの自負をもつようになった仲間でした。ですからこちらは身分が高いというわけではなく、支配者階級にあったとは言えません。専門の研究者が律法学者であり、従ってサドカイ派に比較するならば、こちらはエリート専門家をイメージするとよいかもしれません。ファリサイ派については今回詳しくは追究しませんが、感覚の鋭い方は、いまの教会がこのファリサイ派の傾向をもっていないか、見張る必要があることに、お気づきだろうと思います。
 
学者タイプではなく、政治家タイプのサドカイ派。福音書では、まず復活信仰がないことで特徴づけられます。そもそも復活信仰自体、旧約聖書からは感じられず、それは旧約聖書続編を見ると一部に出てくるのですが、庶民はファリサイ派の考えをより近く思い、その中で肉体のよみがえりや審判といった思想、そして霊や御使いの存在などを信じていたのでした。しかしサドカイ派はこれらを認めません。サドカイ派は(当時は今のような形での旧約聖書という括りはまだなかったので)旧約の文書の中でも「モーセ五書」と呼ばれる、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の5つの書を重んじていました。世界の創造からアブラハムなどのユダヤ人の先祖、エジプトからモーセを通じて脱出しパレスチナの地に到着して支配を始めた歴史と、律法の数々こそユダヤ人の掟であり模範であると考えたのです。そしてそこには決して復活や死後の生命といった物語が書かれてはいないので、認めなかったのかもしれません。
 
パウロが神殿で最後に捕まったとき、なんとか弁明の機会が与えられたのですが、その際、大祭司に強く責められるような場面をこしらえてしまいました。このままでは自分はすべての人々を敵に回すかもしれません。それでパウロは、機転を利かせて、こういう作戦に出ました。
 
パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」(使徒23:6)
 
つまり、パウロを取り巻く勢力の中に、サドカイ派とファリサイ派とが共にいることを覚ると、彼らの仲間割れを誘ったのです。日ごろ復活や天使などの教義において反目し合っているサドカイ派とファリサイ派でしたから、パウロが、復活のことを自分は言いたいのだ、と主張すると、サドカイ派は否定しにかかりますが、ファリサイ派はパウロを擁護したくなると踏んだのです。案の定そのとおりにその場は二つに割れ、もはやパウロを攻撃するどころではなくなりました。
 
イエスを訴える裁判の頃の福音書の描写では、サドカイ派が主流にいるように見えます。聖書的な解釈の問題も関わっていたことから、律法学者も顔を出すのですが、イエスを訴えて死刑にしろと叫ぶように群衆を仕向け、率先して吠えるのは、大祭司や議員たちなのです。
 
え、大祭司って何かって? もともと旧約聖書では、動物の犠牲を神に献げるというのがありましたね。この儀式を行うのが祭司で、そのトップが大祭司という理解で、よいと思います。レビ人というのも出てきますが、こちらは確かに宗教的な専門職であるにしても、助手的な地位と見なされます。ざくっといくと祭司を牧師たちとしてはどうでしょうか。なお、大祭司については、「ヘブライ人への手紙」がこれをテーマにしながら、キリスト論を展開していますので、ぱっと読むと難しいけれども、どこかで味わってみることをお勧めします。
 
元に戻ります。このとき、つまり十字架へ向かう経過の物語の中で、福音書は「サドカイ派」という言葉を出して説明することが一度もありません。とくにマルコとルカは、例の死んだときにはどの男の夫となるのかという問いかけのほかには、サドカイ派という語は全く使いません。マタイは、ファリサイ派とサドカイ派とをペアにして二度ほど話題に出します。
 
しかし、大祭司が告発する側にいる裁判では、実質サドカイ派が導いているのではないかと思われます。使徒言行録でも、少ない例ですが、サドカイ派は登場し、やはり復活に関する問題のところと、あとは使徒たちを逮捕するように動きます。面白いことに、クリスチャンたちの敵としてはファリサイ派はもう登場しません。むしろファリサイ派からキリストの弟子となった人のことが描かれる(使徒15:5)くらいです。あれほどイエスと敵対し、イエスがとことん非難したファリサイ派は、使徒言行録には実質現れないのです。
 
なんとか「派」という名前は、ほかにも少し聖書に出てきます。また機会があったらお話し致します。



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