ワールドカップ予選最終試合

2018年6月29日

28日深夜の、ワールドカップ予選最終試合は後味の悪さを残したようですね。私は事情でテレビをのんびり見ることはできなくなりましたが、様子は後からでもよく分かりました。つまり同時進行のライバルチームの試合状況に合わせて、負けてもいいからそのまま0-1をキープすれば決勝トーナメントに進出できる、というところに注目したわけですね。
 
そのため、無用なパス回しで時間を稼ぎ、少なくとも相手にボールを執られてカウンター攻撃でもう一点取られる、というリスクを回避したというのでした。攻撃をしかければ、その危険が伴いますから、こちらが地味にボールを持っていれば、試合はそのまま終了します。
 
もちろん、その間にライバルチームの試合が動き、どちらかが点を入れると、日本は三位が決定してしまい、決勝に進めなくなってしまうので、この時間稼ぎ作戦は賭ではありました。
 
これは卑怯なやり方だ、と見た人がいました。確かに、そのゲームだけ取り出したら、間違いなく卑怯です。しかし、下手に動いて決勝進出を逃すための、できるだけ可能性の高い作戦であったというのは本当のところで、選手に汚れ役を任せる監督の決断も辛かっただろうと思いますし、選手もまたブーイングの刃にさらされて気持ちよくなかったことでしょう。
 
国内のファンたちは、とにかく結果として決勝進出になったということで、概ね良かったというように見えました。あるいは、マスコミがそう言っているということなのかもしれません。これからまだトーナメントの放映が待っていますから、サッカー熱が終わらないほうがよいに決まっています。
 
試合に勝つためには何でもする、とはよく言いますが、決勝に出るためには何でもする、という方式に映るのは事実です。たとえば、試合を見に来た人に対しては失礼な話でしょう。私なども、サッカーを特に愛するということではないのですが、こうした大試合は機会があれば見ます。オリンピックもそうですが、やはりそこは、世界最高のプレイの舞台なのです。人類最高の技術と技術の、鍛錬と鍛錬のぶつかり合いは鑑賞に堪えるというか、すばらしい技の目撃であるに違いありません。それが、最後の10分ばかりでしょうか、全然世界的なプレイを見ることができなくなってしまったわけです。これは、プロ野球で強打者を敬遠すること以上に、つまらなく失望してしまうようなことだというのは、その通りだと思います。
 
これは難しい評価です。一概に、どちらが良いとも悪いとも言えないように見えるからです。しかし、これは卑怯だと吠えている人がいましたが、そういう人の中にはえてして、逆に正攻法で試合を運んだために相手にボールを取られてもう一点入れられて予選敗退という結果になったら、なんで時間稼ぎをしなかったのだ、と非難して吠えるような人もいそうな気もします。要するに自分の気に入るか入らないかでひとをどんなふうにでも非難したいタイプの人もいるということです。そういう非難ではなくて、やはりサッカーの醍醐味を楽しみたい、最高のプレイを見たい、そして何よりも、奇計を用いることへの素朴な疑問というあたりからの、意見は、一面の真理であると言えるでしょう。
 
企業のリーダーにも、こうした判断が求められることがあるでしょう。ビジネスの世界でも、裏に手を回すべきか、正論を貫くか、果たして勝利者はどちらなのか、そんな点で揺れることがあろうかと思います。残念ながら私たちの世の中での「政治」は、裏ばかりで動いているように見えて仕方がなく、正攻法を貫く側を有権者は支持しない傾向にある時が多いようにも見受けられます。
 
但しこの日本チームの決勝進出については、この記事のように、どうしても皮肉にしか聞こえない点があることは、私の心から簡単には消えません。勝敗数や得失点差において差のつかなかった日本とセネガルとの間で、どうして進出と敗退との差の順位がついたのか、それが、「フェアプレーポイント」の差であった、という名称についてです。セネガルの監督は、攻めてぶつかってファウルを取られることを自分は選手に悪いことと評価してはいない、と言っていたようです。
 
なおここでは敢えて、スポーツ界で語り継がれるフェアプレーの美談めいたものは、扱わないことにしました。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります