神を「つかう」のでなく神がとりあ「つかう」中で

2018年6月26日

聖書は人間の目から見て数学的に首尾一貫しているとは言えません。しかしまた、受け取る私たちからすれば、その都度置かれた情況において、助けとなり指針となる言葉が与えられるのも事実です。残念ながら、それを直ちに一般化して普遍的なものと勘違いして、他人に押しつけるということができないし、度々それをやってトラブルを起こしてきたのが歴史である、と言うこともできるでしょう。
 
ですから、私が正しいと信じることを、神が叶えてくださるという信仰はあってもよいし、同時にまた、必ずそうなるのだと他人にちらつかせるようなことは控えるべきであろうことが学習できます。
 
さらに、罠があります。いつの間にか、自分が主で神を僕としてしまう危険があるということです。このすりかえは巧妙になされてしまうので、いわば悪魔のつけこむところなのだろうと考えられますが、人間が自分の思うとおりに神を使おうとしてしまう罠です。
 
これは、キリスト教に関係なく、しばしばあることです。古来文明が神的存在を掲げながらも、自分の繁栄を願い、それを叶える神を称え、自分が失敗をすればその神を棄てるということを繰り返してきました。戦争に負けた国の神は滅びるというのが一般的法則でした。イスラエルの神がそうはならなかった、というのが特異なところでありましたが、人間はえてして、神を使い捨てしてきたのです。
 
それは、人間の「理性の法廷」で神を裁き、断罪してきた歴史でした。
 
かといって、神の前に叫ぶ魂を前にして、神に悪く言うものではない、といった非難の声を浴びせることはできないと考えています。神に向き合っている魂は、神が取扱い、導いてくださることでしょう。
 
そう言えば、「神の取扱い」という表現を、少し以前の教会はよくメッセージの中で用いていました。神が私たちを取り扱う、という説明です。個人的な信仰の部分でしか意味の分からない部分でしょう。聖書や信仰を他人事のように、つまりは神を道具としてしか「使う」ことをしていない人には分からない単語であるかもしれません。
 
私はちっとも正しいものではない。それでも、正しくないことを避けながら、またそれを教えられると考えつつ、与えられた言葉を語り、また示された命令に従っていけたらよいと憧れます。
 
こちらに、正しいお方がいるのだ、という道標だけを掲げて。



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