2018年6月24日

♪さかな、さかな、さかな、さかなを食べると
 あたま、あたま、あたま、あたまがよくなる〜
CDになってからすでに20年以上経つのですが、いまなおスーパーの魚売場で聞かれる名曲(?)のタイトルは「おさかな天国」。確かに、魚屋では魚を天国に送ることになる、というブラックユーモアも聞かれました。
 
天国という言葉は一般にも広く知れ渡っています。人が死ねば天国に行く、という通念が漂いますが、聖書は必ずしもそのようには書いてありません。
 
それどころか、新共同訳ではついに「天国」という日本語は現れません。「天の国」ならば、マタイによる福音書だけに32節にわたり登場します。どうしてマタイだけなのか、には理由があります。それは、十戒の中の、神の名をみだりに称えてはならないという点を意識してか、マタイはその福音書の中に、「神」という語を避ける傾向があり、他の福音書ならば「神の国」とするところを「天の国」と言い換えているように見受けられるのです。尤も、マタイでも「神」という語の邦訳箇所は52箇所に及び、マルコよりもむしろ多いのではありますが。
 
「天の国」の「国」が、国土を意味するというよりも、「支配」「権力の及ぶ領域」のような感覚で使われている語だということはよく知られていますが、「天」とは果たして何でしょうか。これが、あまりにもありふれているようで、そうそう明確に定義ができないような気がしてなりません。
 
ギリシア語では「ウーラノス」といい、この語は空や大気を意味すると理解されます。私たちが「宇宙」と呼ぶ感覚で使われているように見える場合もあるかと思います。これがヘブル語となると、「シャーマイム」であり、「マイムマイム」というダンスが「水だ、水だ」と歌っているように、「マイム」という水に関する語だと言えます。あの空には水がある、と考えられていたようです。
 
詩編などに使われている「天」からすると、天には層が幾つかあり、神はその最高の天に住まわれている、と見られている場合があることが分かります。これは今でも新興宗教やオカルト思想がとびつく題材となっており、見てきたように天の構造を語るということさえありますが、それは古代の思想にそうしたものがあったことに基づいているかと思います。パウロも、第三の天にまで言ったと述べていました。もしかするとそれは天の一番高いところまで、という意味なのかもしれません。ユダヤの思想の中に、天が七つある、とするものがあり(神に愛されたエノクは第六まで言ったなどとも言い)ますから、そういうことを踏まえているのでしょうか。
 
初めに、神は天地を創造された。ここから聖書は始まります。この二つに水が加わり、世界の構造の主軸は決定されます。現代人と理解は違うにせよ、やはりここでは宇宙を想定しているように見えます。しかし、その中に神が住む、としてしまうわけにはゆきません。天は神が創造したというのですから。では、その神は「どこに」いるのでしょう。もし時間をも創造したとすれば、神は「いつ」創造されたのでしょう。そんな疑問を抱く人も多くいました。もはやこうなると、創造という人間が有する概念をすら、はるかに超えた事態がそこにあると見なすよりほかなくなるでしょう。
 
旧約聖書ではとくに、「天」という語は、書ごとに見た場合、多く用いる書と、全くあるいは殆ど用いない書とがはっきり分かれている傾向があります。詩編や大きな4つの預言書に特に目立ちますが、それらは人から神を見た場合の言明となります。人間は、神を見上げるとき、そこに天を思い、天によって神を思うのかもしれません。
 
天におられるわたしたちの父よ、とイエスは福音書で祈るときにここから始めよと教えました。原文のニュアンスだと、「私たちの父。その方はウーラノスの中に(いる)」という感じです。祈りの模範とされている以上、教会でもそのような始まりから祈られることが多いのですが、果たして父なる神は天におられるのか、天にしかおられないのか。私たちと共にいてはくださらないのか。心の中に来てくださったのではないのか。聖霊とは別ものなのか。そんなふうに、排除の論理で追究を始めますと、面倒なことになります。人間の論理は、あれか・これかで峻別しがちです。生物学でいう悉無律(しつむりつ)のような、全部そうか、無であるかの対立で判断をしてしまいやすいのです。さて、神がその人間の理性の論理に従うのかどうか、そこは、人間の理性の法廷では裁けないのではないか、というふうにも思われるのですが、如何でしょうか。
 
最後に、天地が滅び去るというのが、黙示的思想に特徴的な表現でした。神の創造されたものが滅びるということで終わりなのではなく、新しい天と地が到来するというのが、聖書の描くいわゆる終末であろうかと思われます。黙示録の幻想的な描写は一般の私たちの理解を超えてしまっていますが、もうこれは楽しみとして待つよりほか仕方がありません。それが、信ということの醍醐味でありましょう。
 
それにしても、私たちはうれしいとき、「天にも昇る喜び」といった表現を使います。案外このあたりが、聖書と一番ぴったり合っている感覚なのかもしれません。



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