黙想のためのヨナ書

2018年6月16日

「ヨナ書」にいろいろ光を当ててみましょう。ぜひ、その都度立ち止まって、考えを巡らせてみてください。どこからも黙想できるように、区切っています。
 
さあ、ニネベへ行け。ヨナに告げられた言葉は、なんと無理難題なことか。小国イスラエルを脅かし後に滅ぼした大帝国アッシリアの首都で、イスラエルの神を告げこの神がおまえを滅ぼすぞ、と警告しろ、というのですから。
 
ヨナはニネベと反対へ向かう船に乗り逃げます。が、大嵐となり「くじ」でそれが自分のせいだとばれてしまいます。私の神はすべてを創造した、と話すと、人々はヨナの言うことを信じます。ヨナは神から逃げましたが、神を語ることからは逃げませんでした。
 
船乗りたちを助けるために、ヨナは自分を犠牲にしろと言い、海に放り込ませます。人々はますます主を信じます。人々を救うために自らを十字架へ差し向けたキリストの姿を思い起こします。
 
神は巨大な魚に「命じて」、ヨナを呑み込ませます。ヨナは三日腹の中で命を長らえます。キリストが十字架から三日目に蘇ったことに比せられます(マタイ12:40)。キリストは神に蘇らされた、と聖書は告げます。このとき「救いは主にある」と祈られています。
 
しかしヨナ=キリストなのではありません。ヨナは、私たちのように描かれます。陸地に復帰したヨナには、神は再びニネベへ行けと命じます。ヨナは今度は神に素直に従います。40日という、聖書で有名な節目の数字を以て、都の滅亡を告げて回ります。
 
すると、意外にも、ニネベの人々は悔い改めて神の前に実に謙虚になります。王自ら、イスラエルの神の前に滅ぼさないでほしくて徹底的な反省を見せるのです。神は、滅ぼすのを止めました。もはや悪ではなくなった国を罰さないのはある意味で合理的です。
 
これがヨナにとっては面白くありません。いやいや逃げたのを瀕死の中で連れ戻されて、ニネベは滅びると神の命ずるとおりに危険な敵国の中で警告してまわったら、皆いうことを聞いたから滅ぼすのを神が止めた、だなんて。おれは道化師か? 
 
ヨナは、すねました。どーせ、こうなること、分かっていたのにさ。神はやさしいから、滅ぼすはずがない、だから最初逃げたのだったのに。なんてざまだ。俺なんかもう死んだほうがましだ。すると神は静かに「それは正しいことか」と問いかけます。
 
ふてくされたヨナは、やっぱり都は滅びるだろうよ、と町の外に小屋を建て、町を観察し続けることにします。俺が滅びると言ったんだからね。しかし、暑い。神はヨナを守るために木を生やし、日陰をつくります。ヨナは助かりますが、神の思いを知りません。
 
神は気づかせようと、今度は虫に「命じて」その木を枯らせます。ヨナは暑苦しくなり、俺はどうせ不運だ、死んだほうがましだとぼやきます。すると神はまた静かに「それは正しいことか」と問いかけます。ヨナは、むかついて死にたいっすよ、不満を出します。
 
神はヨナに、自分にただ与えられただけの木を惜しんで死ぬなんぞ言うのか、と説きます。神は自分の手で創造したこの都ニネベを惜しいと思ってはいけないのか、と問います。物語は、ここでぷつりと終わり、ヨナの反応も、この後のことも、分かりません。
 
ヨナはどうしたか。ここで、私たちがヨナになりましょう。回答は、あなたに託されています。「それは、正しいことか」と問われています。
 
「死んだほうがましだ」とヨナは二度も神に告げました。神は「正しいことか」と諫めました。自分は死に値する・生きている価値がない、ひとはそんな言い方をする場合があります。しかし、それは自分で自分を裁き、特殊な形ですが、自分で自分を神としていることではないでしょうか。
 
ヨナは物の道理を考える人だと思います。他方、右も左もわきまえぬ人々や家畜は、あれこれ考えたり理屈をこねようとはしません。しかし神は、どちらも救いへと導こうとしているように見えます。
 
ヨナは初めに神に背を向けました。ニネベも悪の町でした。聖書の初めにアダムは神を裏切り離れます。ヨナは様々な事件の中を神の手の内で導かれ、間違いを指摘され、神の救いと憐れみを見ます。ヨナとニネベの離反が回復されるように、聖書は「回復の歴史」を綴っていたかのようです。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります