通訳

2018年6月12日

映画「ピーターラビット」を観ました。
 
ピーターラビットのおはなしの、あの小さな絵本を買っていたころを懐かしく思い起こしますが、映画は絵本とはずいぶん違った赴きでした。一部、絵本を大切にしていた人たちからは、非難の嵐だという話ですが、おおよそ肯定的に捉えられているという話を聞きました。
 
日本での予告編や紹介では、ビアとトーマスのロマンスが表に出ているように見受けられましたが、イギリスだとそれよりもピーターの大暴れがウリであったようです。実際、あのやんちゃぶりは、博多でいう「わるそぼうず」に相応しい姿。逆に、だからこそ、そんなふうに現実に暴れられない子どもたちも大人たちも、スカッとするのかもしれません。
 
可愛くて、楽しかった。ひとまずはそういう感想にしておきます。そして、大切なものが何であるかに、気づかせてくれるような、良い映画に仕上がっていたと思います。
 
今回、上映時刻の関係で、字幕で観ました。それで、元の声を英語で感じながらの鑑賞となりました。英語の長いフレーズのままに訳すととても日本語の文を読むことができませんから、相当に短くして字幕はつくることになります。こうした事情は、賛美歌の翻訳についても言えます。かなりの情報量のある欧文の歌詞を、ストニックに圧縮しないとメロディに日本語を乗せることができないからです。
 
さて、聖書のギリシア語でもその傾向は同じです。英語が少し分かるのであれば、ギリシア語の単語レベルで英語の説明が入れてあるものをインターネットで見ることができて、便利です。それで確かめることもできると思われます。
 
しかしヘブル語はさらにコンパクトで、同様にインターネットでの逐語対応を見ると、よくぞこの単語の文をあれだけの長い日本語にしたのかと驚くことが度々あります。これを逆に言えば、日本語で旧約聖書を読むとき、そうとうに引き延ばした文章として見ているという意識をもつことが大切になります。この日本語に対応するヘブル語が原文にあるのだ、と思い込むと、とんでもない、ということになりかねません。
 
聖書でもそうですが、翻訳作業においておおまかに言って、できるだけ原文の表現をそのまま他の言語に置き換えていく方法をとるか、それともそんなことをしても不自然な言葉になるからできるだけ意味に即して理解して意味を伝えようとする方法をとるか、2つの道があると言われます。一長一短ありますから、そのどちらをも参照できたらよいのではと思わされます。従って、日本語訳にしても、数種類を手許に置き、礼拝で扱われて箇所からでも、読み比べてみる、ということはお勧めできる読み方です。
 
実はこれは、教会の礼拝説教における手話通訳でも言えることで、逐語訳のように、すべての情報を手話に置き換えて伝えるのがプロなのかもしれませんが、私はそのスピードに対応できません。言わんとすることを理解して、細々とした言い回しのすべてを手話にしてしまうのでなく、大切なところは繰り返して手話にすることで、しっかり伝えることをモットーとしています。
 
これも、どちらが良い悪いということはないのです。ただ、説教を日本語で語る説教者についての注文として、原稿をすらすら読むようなふうではなく、「ここぞ」というところを伝えるときには誰の耳にもはっきり「ここが大事なんだな」と分かるような言い方をすることや、原稿にたとえなくても繰り返すことで、メリハリのある語りをして戴きたいと願います。様々な説教論を繙くと分かるのですが、説教はその声や姿勢、語りなどに命があるということが明確に説明されています。同じ文章でも、語り具合では、すばらしい説教にもなるし、ただの呟きにでもなってしまうのです。
 
説教は、情報が伝わればよいではないか、というものではないはずです。それは「神の言葉」であり、また「いのちの言葉」である、一期一会の「語り」であるはずなのです。



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