ワーシップソングと歌詞

2018年5月29日

様々な賛美を一括りにするつもりはありません。ただ、いわゆる「ワーシップソング」と呼ばれる中には、何かしら物足りない、という目で見られるものがある、ということは確かなので、そのあたりを検討してみようかと思います。
 
「主をたたえます」「勝利」「あがない」「ハレルヤ」など、いわば決まり文句を並べただけの歌詞になっている、これがよく言われることです。詩編にもそういうものがありますから、一概に否む必要はないのですが、派手なサウンドで感情的に鼓舞されはするものの、歌詞そのものの味わいは薄く、たとえは悪いのですが、候補者の名前を連呼する選挙カーのような印象さえ与えかねないと思われることです。
 
他方、教団讃美歌の歌詞は、日本語として、文語調ではありますが、よく整っており、情景をよく描き、ひとの感情も分かりやすく歌い上げるものがたくさんあります。これに慣れた人々にとっては、決まり文句的なワーシップソングは、中身がないように受け取られても仕方がないかもしれません。
 
その教団讃美歌の歌詞ですが、原文と比較したことがある人はお分かりだと思います、実は原文とかなり違う内容にされていることが多々あります。すべてがそうだというわけではありませんが、日本語は、全体的に美的・情緒的な表現でやわらかくまとめてあるように感じます。もちろん、英語と日本語の、ことばの音数と情報量との問題があり、英語の内容をすべて日本語に直すことができないという事情があり、他方また、日本語は主語を出さずともよし、俳句の省略に見られるように行間を覚らせるのに適した言語である点もありますから、実は歌の翻訳というのはたいへん難しいものなのですが、それにしても、かなり教義的な歌詞が、至って情緒的な歌詞に直されている、というのは、恐らく日本人の心情に配慮した翻訳なのであろうと思われます。たとえば教団讃美歌205番の聖餐式の讃美は、原文では聖餐式の要素のひとつひとつを丁寧に謳い、また人の罪と、それをきよめる主のわざを子羊の婚姻の宴の中に描き上げていますが、日本語ではそれを伝えられないでいるのが残念にも感じます。
 
作詞というのは、なんとなく思いついた言葉をメロディに載せる、というほど単純ではありません。日本語だと韻を踏む「必要」はありませんが、案外ラップ調など、最近の若い世代の歌詞は韻を大切にしているように見受けられる場合もあり、それはそれでよい心得なのかもしれないと感じます。しかしそれも感覚が中心です。讃美歌には、何らかの神学が必要ではないかと考えられます。要するにこの歌詞は全体として、どういう神の事実をうたっているか、が20字程度で述べられるか、そのくらいの「柱」が必要ではないでしょうか。詩編でも、フランシスコ会訳には、もっと短いですが、一つひとつの詩に内容を示す題が付けられています。また、「さわり」(これは歌の初めという意味ではなく、聞かせどころという意味ですので念のため)において、一定の繰り返しがよくありますが、そこへ導く枝のような歌詞や展開が、十分に備えられているでしょうか。言葉がばらばらに置かれているのではなく、時にそれはストーリーをもち、また時に明確にひとつの情景を思い描かせ、歌う会衆が共に主の前に出て主の呼びかけを受け、主に応える形で口を開いている、そういう場面をつくっていくことができるでしょうか。そのためには、作詞は、様々なテクニックを駆使しなければなりません。どのように言葉を並べると、歌う人ができるかぎり自然にその場面に入っていけるだろうか、感じる事柄が錯綜せずに一筋の流れの中に置かれているだろうか、そんなことを強く意識しながら、また使う言葉も、言い換えたほうがよいのか、同じ語を繰り返したほうがよいのか、練りに練って紡いでいきます。
 
教団讃美歌の歌詞は、情緒的に傾いているという意味のことを申しました。しかし、上の点で、実に優れた配慮がなされていることは事実です。原文には原文の、西洋文化の配慮が在ります。邦訳には邦訳の、日本文化の配慮があります。選挙カーのたとえでいうと、名前の連呼ではなくて、公約や政策を伝えている、ということです。
 
もちろん、ワーシップソングと呼ばれている中にも、そのような配慮のよくできたものはいくらでもあります。しかし、音楽的に優れた若い人も、作詞のほうでは神学の足り無さが時折見受けられるのも事実です。年配の方々がなじめない場合があるのは、必ずしも音楽の趣味というばかりではありません。いまの年配世代はすでにエレキやロックを知っています。浪曲や演歌ばかりに馴染みすぎたというわけではないのです。それでも、何かしっくりこない、という感覚を比較的広い範囲で耳にします。それは、歌詞の故であるのかもしれない、というわけです。
 
 それは、神学無き表面上の言葉であることがあるのではないか、という提言でした。この場合の神学とは、学問を究めよという要求をするような神学ではなく、聖書を受け継いできた二千年(以上)の歴史に裏打ちされた、多くの人々の信仰につながる霊的な筋道ということです。「新しい歌を歌え」というのは、何も新曲を作れという意味ではないというものの、私たちの時代に合った、またいまここで共に主を礼拝する共同体の信仰告白であったり、私たちの力になったりするような讃美として、単に古く馴染んだものや、博物館に置かれるようなものではなく、私たちの新しい今日、明日という日の歩みを生み出してくれるような新しさではありましょう。そこには、二千年にわたり導いてきた聖霊の力が関わっているべきですし、関わっているはずです。この歴史の流れの中に位置する私たちの歌のための作詞は、この流れを知る知識、すなわち神学により、生み出されていくものでありたいと願うのです。



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