性教育をどうすべきか、という問題について

2018年5月27日

中学生への性教育をどうすればよいか。最近よく話題になるテーマです。2018年3月の東京の中学での指導に対して、都議が問題化し、教育委員会が不適切だと判断したことが記事になってから、社会問題化したと言われています。
 
意見は様々あり、また発言者の立場によって考え方がずいぶん変わるということもあるようです。いま、その是非を述べようとは思いません。
 
考えたいことは、これは性教育という土俵だけで意見を闘わせていくべきことなのだろうか、ということです。それは生命の教育へもつながることであろうと思われます。生命を大切に、というのは当然ではないか、とお思いになるかもしれません。そうでしょうか。私たちの現実には、生命を軽んじているケースが多々あります。
 
いや、生命を軽く見るけしからん奴らがいろいろいるからいけないんだ。善良な市民は、生命が何よりも大切であるということは皆弁えている、と仰りたいでしょうか。
 
戦争はどうでしょうか。戦争は人を殺すことです。いやいや、日本は戦争をしないじゃないか、と、こういう話をするときには憲法第9条を変えようとする人も、戦争反対という立場を貫くのが不思議ですが、それにしてもまあ、戦争というのがどういうことか、真底感じていない場合の多い現状にあっては、戦争はどこか他人事です。戦争は生命を軽く扱うから悪である、と言っておけば、さしあたり自分に火の粉はかかりません。
 
そうです。どんなことを問題にしても、私たちは、生命は大切である、という建前を示して、お茶を濁すことができるのです。生命は大切なもの、だから性教育にしても……というような観点から、賛成なり反対の意見がぶつかっているように見受けられてならないのです。
 
そこで、本題に入ります。ここで、「食」を問いたいのです。
 
私たちは食べなければ生きられません。それは、おしなべて、何者かの生命を殺して食しています。私たちは、日常的に、刻一刻と、生命を奪って生きていることに違いはありません。確かに、無精卵を食べるときには、生き物を殺しているとは言えないかもしれません。しかし肉はもちろんのこと、植物も生命である訳ですから、野菜や穀物を食べているのは、生命を奪う範疇から外れることはできません。果実は、生命そのものを奪うとは言えませんから、その種子をもし遺すのであれば、生命を奪うとまでは言えないかもしれません。が、果実の食事に占める割合は、あまりにも小さいと言えましょう。私たちの食生活の大部分は、生命を殺して成り立っています。
 
ひとは、平気で殺しています。だのに、生命を大切に、と美しい標語を口にする。そこに矛盾を覚えることすらなく。
 
さすがに、多くの人は、自分の手で鶏を締めたり、豚を殺して肉を裂いたりはしないでしょう。それだけに、そうした仕事に携わる方を私は最大限に尊敬しているのですが、その実態はまず決してカメラの前に映し出されはしません。殆どのひとは、自分で手を汚さずに動物を殺し、その死体を切り分けて口にして、美味だと笑っているのです。その中で、動物を殺して食べるということに気づく人、あるいはそれを拒否して肉を食べない人もいます。ただ、どういうわけか、魚は目の前で生きていたのを殺す場面を見ても何とも思わないのが私たちの感覚ではありますまいか。どうかすると、躍り食いと、生きたまま食べることさえ拒まない。目の前で絞め殺された鶏が目の前で捌かれて料理されたら、食べられるでしょうか。魚なら平気なのですね。この違いは何なのでしょう。
 
だから動物は一切食べません、というベジタリアンも、植物という生命を食べている点で、根本的にはこの問題を逃れられないのではないでしょうか。これに対して、生きるためには当然だ、との開き直りもあるでしょう。中には、動物は殺されて食べられるためにあるのだ、という強弁もありますから、こうなると、手強いところです。
 
私はここで、生命を奪うのがいけない、と言っているのではないのです。「生命を奪うこと、殺すことはいけない」とのテーゼを掲げる当人が、実は毎日生命を奪っているということをどう考えるか、ということなのです。殺すことは構わないことだ、というテーゼを掲げて生きる人について何か申し上げているのではないのです。そして、食という問題は、生命に関して、アンビバレントな場所に位置しているということに気づきたいのです。だからこそまた、性という問題も生命に関することであるから、何かしら類似点はないだろうか、その難しさを踏まえていきたい、だから食の問題と並行して考える意義があるのではないか、ということなのです。もちろん、性の問題は食とは異なり、社会的な背景に基づくものでもあって、違うと言えば全然違います。それでも、性だけを独立させて侃々諤々議論しても、たぶん熱くなることはあっても、対立が理解になることは期待薄であろうと思われるのです。
 
性教育の問題は、個体としての自己の生命ではないが、種族としての生命に関する問題です。未来という時の中での、ある意味での自己のあり方、またその責任という観点を抜きにしては考えられません。この性教育の問題は、食という問題と並行して検討していく姿勢をもって然るべきではないか、と提案します。私たちにとり、食の問題は、簡単には結論できないし、ある意味では矛盾を抱えたままに「生きる」ために当然のことと考えています。もし殺すことが悪だと主張するとしても、食は必要悪だということに留めるのかもしれません。しかし、ごまかさないで私たちが他を殺して自分が生きることをやっているという中で、生命を大切になどといったことが無意味な欺瞞であることにもしも気づいたとしたら、その時初めて、性教育はどうなのか、ということが議論できるように思えてなりません。



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