日大アメフト部の元選手の記者会見

2018年5月22日

日大アメフト部の元選手の記者会見は少しだけ見ました。多くの方が触れているので、そのことについてとやかく申し上げず、私なりの視点を一点だけ。
 
先日『中動態の世界』という本をご紹介しました。ギリシア語の中動態が消えたのは何故か、その意義は何であったのか、それを、現今のギリシア語入門書が判で押したようにoneselfの意味だ、としていることでは到底済まない背景があるということを、古代語の様子を丁寧にリサーチし、ついにはスピノザの世界観にまで結びつけて考察するといった、サスペンスものにも似た快感を与える好著でした。
 
その中で、自由と責任について触れたところがあります。要するにこの著者(國分功一郎氏)の問いかけは、能動態と受動態がほんとうに反対のものとして対立しているのか、というあたりから、いやそうじゃないだろう、ということへと進むのですが、その時に、この意志の問題に挑みかかるのです。自発的と非自発的との対立で済むのだろうか、ということです。著者はこれを「カツアゲの問題」と呼ぶ。「カネを出せ」と脅されて金を渡す。この渡した行為は何なのか、というのです。時には「カネを出すという手もあるよなー」などと、直接言わずに責任を免れようとする知恵のまわる脅迫者も、最近は多いかもしれません。どちらにしても、渡すか渡さないかは、脅された者の自由の中にありました。ではその人は、能動的に金を渡したのでしょうか。古来の定義からすると、これは能動的としか言えないのです。しかしそれはおかしい。著者はここからまた、政治権力者は、このような意味での能動的な市民に支えられるように政治をするという構造を見抜きます。決してそれは受動ではないだろう、と納得させながら。そう、これは「暴力」という概念の内にある構造なのです。
 
能動と受動を対立させるから、このような論理が入り込む隙間が生じるのであって、元来の対立はそうではなかった、というように、中動態の議論は重要なターニングポイントをここで迎えるわけですが、いまは日大アメフト部の話でした。
 
もうお分かりの方もいらっしゃることでしょう。あの元選手は、どのような経緯でそう話したのかは分かりませんが、監督・コーチに半ば強要されるようにされたにも拘わらず、やったのは自分だから自分の責任である、という言い方をしました。会見上、これはよい方法だったと思います。ここで、自分は悪くない、言われたままにしただけだ、としたよりは、確実に世間の支持を取り付けます。しかしともかく、あのカツアゲされた者が金を渡した状況を、自分の意志で渡したことは確かです、と言っているようなものであり、自分にも責任がある、と言ったわけです。それは、命じた側に責任があるのかないのかについては、自分は判断できる立場にない、という言い方を貫いたことにもうかがえます。カツアゲした者を悪い、とは言わなかったのです。
 
これは幾人かの方がすでに仰っているように、「いじめ」の構造でもあります。いじめられて親の金を盗みいじめた者に渡していた子のような図式です。あるいは、いじめられる自分の側にも非があるから、といじめた者を責めない様子と似ています。
 
法的には、命じた者に責任を負わせにくい状況がある、と法律家のコメントも聞きました。そう。法はしばしば、証拠の取りにくい、このカツアゲする側の行為を適用する犯罪要件に乏しいのでしょう。元選手は、受動でしたのではないから、能動なのです、というアリストテレスの理論が、いまもなお通用しているのを私は見ました。そこへいくと、中動態は、自由に近づいていく可能性を有している……と、これ以上はもう本書を御覧戴くしかないのですが、少なくとも、組織のために個人を犠牲にする構造に、世の人々が気づいていくならば、少しは良いことがあったと言えるかもしれない、と思うのでした。
 
経験上も申し上げますが、どういうわけか「学校」という組織は、多かれ少なかれ、あんなものです。あれが「学校」の常識です。いまは十年前と比べて、表向き、ずいぶんとへつらうように変わってきましたが、中の構造は変わっておりません。「別に直接カネを出せなんて言っていないのにこいつが勝手に金を渡したんですよ」とでも言うかのように、結局は個人を潰すことしか目的としていないのは、日大だけの問題ではなく、身の回りの中学や高校も、ああいうものが染みついている、というくらいに考えておくことを、お勧めする次第です。



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