映画祭と益城町でのカフェ

2018年5月22日

前回3月には、曜日が異なり参加できなかったのですが、2カ月に一度のこの機会、行けるならば加わることにしています。仮設住宅にお住まいの方は、確実に人数を減らしています。新しい住まいが得られたという点では、それは良いことでしょう。しかしだからまたなおさら、その残された少ない方々の心細さや辛さというものについて、考えてみることも必要になるでしょう。
 
それでも先日は、スタッフの人数の半分以下のお客さまの数。経済効率からすれば割に合わない結果のように見えるかもしれません。やはり行政的な営みであれば、そういう事情は大きな意味をもつものとなることでしょう。
 
熊本に向かう車の中では、いろいろな話が出ます。その中で、近年、街に外国人が当たり前のように混ざってきていることが出てきました。学校でもそうですし、電車内でも知らない言語が普通に飛び交います。観光客というよりも、住み着いている人々であり、店員にも多数見られます。
 
こうした人の存在が、かつては珍しく、日本人対外国人という図式が鮮明にありましたが、どうやらここへきて、共生とでもいいますか、どうやって共に生きていくのかという視点からスタートしないと、社会が成り立たなくなっているように思われます。
 
こうした社会では、互いに別様なもの、接点をもたないではいられないでしょう。町内会や学校の親の活動が従来どおりにならないだろうことは踏まえつつも、何かしら理解とつながりをもち、また場面によっては結びつきをつくりながら生活していく必要があると言えるでしょう。
 
時に、カンヌ国際映画祭で、是枝裕和の『万引き家族』が最高賞パルムドールに輝いたという、うれしいニュースが日本を駆けめぐりました。
 
家族の問題を多く描く是枝監督の作品は、いくつも映画館でも観ました。「海よりもまだ深く」がいまの教会に来るきっかけを与えてくれたことが個人的に大きいのですが、「三度目の殺人」の中には十字架を背負った姿をまざまざと見せつけられました。しかしそれまでは、日本人にはよく分かる家族の姿であったのかもしれません。今回最高賞の受賞に至ったのは、より国際的な問題意識を描いたためで、審査員一同が「恋をした」とまで言わせてものとなっています。映画の内容はまだ知らないのですが、ばらばらの家族のつながりが問われるようなふれこみがありました。
 
同じなのが当然だ、という強弁ですべて片づけられた時代から、違う前提でのスタートから求められる結びつきへと、この国もシャフルされるようになったような気がします。肌の色が違うから、国籍が違うから、文化的背景が違うから、そんなことで、不当な差別を受けたり、偏見の中に置かされたりすることがなく、違うのが当たり前であることと、互いに敬意をもつことを以て、つながっていくこと、少なくとも理解し合うことが必要になってきています。
 
もちろん、それは外国人だからという考えの枠組みだけで終わるものではありません。地域の交わりもそうだし、ますます個人主義に走っていくような世代や生活環境、それでいて人とのつながりをどこかで求めている心やそのために歪む思いなど、考えるべき問題は枚挙に暇がありません。
 
それはこの仮設住宅についても、いわゆる被災者も結びついているということです。元の生活環境の中で、家を失った人と失わなかった人とが隣り合わせであったりもします。仮設住宅に来たお隣は、別の地区の人であったりもして、また新たに関係を築き直していくというところに無理やり置かれたような人々。そもそもが外へ出ていく力や必要のないようなお歳を召した方々は、閉じこもり、せいぜいテレビだけが窓になるというケースがあるかもしれません。
 
大切な点はまた、あの映画が、社会の大きな流れにうまく乗った人々が、こうした隠れた人々の辛さを知らず、また見ようともしない、ということです。政治のせいとか世の中がとか言っている場合ではなく、私たちが、この私が、気づこうともしていないことです。
 
映画祭の審査員長は、今回の映画祭を、社会から置き去りにされた「見えざる人々」に声を与えたと総括していました。そして是枝監督も、これからも「見えざる人々」を可視化していきたいと応えたのでした。
 
ひとは効率で片づけてはならない。ひとは数字じゃない。神はどうしてこの自分に目を向けたのか。私はどうして神のほうを向くことができたのか。神の目に、どんなに小さな魂でも見えると信じるのであるならば、神のほうを向く私は、神の瞳に映る、そうした小さな魂のことを知る機会が与えられているはずではありませんか。気づこうと思えば気づくのです。神のほうを向いているのであるならば。
 
今回牧師が、仮設住宅から引っ越すときには声をかけてください、力になれるかもしれませんから、とカード式のお知らせを、スタッフが仮設住宅各戸に渡してきました。「自分からは、なかなか言えない。その気持ちに、こちらから気づいてはたらきかける」、それが使命として与えられたのかもしれません。それを感じて私も、カフェで試みたことがあります。お茶のおかわりを、頼まれる前に、こちらから問うてみよう、と。ですから、その手許の湯呑みやカップをつねに気にしていました。お節介な時もあったかもしれませんが、皆さん、自分からは言いにくいことを呼びかけてもらえた、といった表情で湯呑みを差し出してくださいました。ひとつ、何かができるヒントになったような気がしました。



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