真理と正義、そして

2018年5月21日

私たちは真理を求める。ああ、これが真理だ、と思う経験があるとする。私たちはその思想を、正しいと見なす。
 
こうして、真理を保証する根拠として、正という概念が根底に立っています。この背後の前提に、えてして私たちは気がつきません。もう少し露骨な言い方をすると、私たちは自分が何かを言明するときに、それが正義であるという前提を有しつつ語るということです。もちろん、いま私がこうして語るものも、その例外ではありません。……などと言っている、その断り書きもまた、そうだし、そう言っているものもまた……ああ、どこまでも無限遡行する「正義」というもの。
 
さしあたり、判断中止をして、とりあえず、一旦その遡行を止めて、続きを発してみます。
 
最終的に、私という自身が判断をするとなると、その判断が正しいと言っていることになります。つまり、何かを言明するということは、つねにすでにそれが真理であるとして発していることになります。私が何かを言ったとき、私が真理であり、私が正義の味方であることは間違いないわけです。そこで、もしそれが反駁されたとすると、自分の言った意見に反論されただけでなく、私の正義が揺らいだと感じます。これが強い人が、議論の度に烈火の如く怒ります。
 
他方、自分自身が正しいのであるかどうかよりも、議論を重ねて、何か世のために良好な結論が導かれたらいい、とだけ考えている人は、議論でヒートアップはしないかもしれません。もしも、その議論において、自分の役割は、客観的・公共的真理のために貢献するに過ぎないと位置づけているのであれば、自分が正義であるかどうかよりも、互いに磨かれ築かれていく案や対策のほうが、重要であると理解するからです。
 
ディベートの訓練は、この後者を鍛えるものだと言えるでしょう。これは個人的な信念や人格を攻撃はしないものです。互いに知恵を出し合い、何がベターであるかを探っていくことです。
 
しかし、日本人はえてして、意見を個人の価値と結びつけて捉える傾向がありますから、意見が十分でない場合に、個人の能力へと言及するなどの、やってはいけないはずのことが平気で行われる場合があります。「いじめ」は、そういうところに関係している場合があります。これは、子どもたちや町内会のように、目の行きとどくところで顕著であり、これをすると、個人は意見を言いづらくなります。また、下手に意見を述べると、居場所を失う危険があります。こうして、なんとかその場所で生きていくためには、口をつぐむことになります。本当は、もっとこうたらいいのに、と思うことがあっても、言えないのです。
 
そして、権力をもつ側は、決まってこのように言います。「言いたいことがあれば言えばいいじゃないか。言わない、ということは、これでいい、と言っていることになる。それでいいじゃないか」と。言える立場の側は、簡単にこのように言えるからこそ、強い側にいるわけです。これが、パワハラの一つの基本的な姿です。たんに、地位が上の者が威張っているということをパワハラと言うのではないのです。
 
なにも、日本人論を展開しているつもりはありません。聖書の中にも、たとえばダビデがフシャイを使って、アブシャロムの知恵袋であるアヒトフェルがせっかくダビデを追い詰める案を出したのに、ダビデの危機を免れるフシャイの案を採用したために、アヒトフェルは首を括るという話があります。主君に案を一度否定されたことが、全人生を滅ぼす出来事となってしまったのです。こうしたことを避けるために、民主主義というのは支持されてきたのかもしれません。
 
多様性が尊重されるのは結構ですが、意見を出し合い、それを磨き合うための手段として用いることができない中で、各自が自分の世界に閉じこもるような傾向がますます強くなってきています。自分だけの真理があればよい、それを誰かに知らせようとは思わない、誰かと分かち合おうとは思わない、せいぜい、ごく一部互いに共感できる仲良しがいれば、そこだけで共有していれば十分だ、自分も守れるし、誰かに理解されているという安心感も保証される。インターネットは情報があまりにも公開されるために、意見のぶつかり合いという点では危険がつきまといますから、自衛しているとも言えます。この流れは、自分と違う立場の意見を一切聞かないようになる可能性をも高めるでしょう。強い立場の者は、他を無視して、自己実現だけが正義だとして、それを押し通そうとするし、弱い立場からは、せいぜい叫びはするが、いつも押し切られてしまい、何らの意見も現実の裏を掠めるに過ぎなくなってしまいます。
 
悲観的なことばかり述べてきましたが、これは政治の場面でもそうなのだし、どうかすると、教会組織でもまさにそうです。とくに教会で気をつけなければならないのは、そこに信仰的・宗教的背景があるために、自分の意見が絶対的な真理だと、自信をもつような者が現れたときに、対処の仕様がないということです。それが牧師である場合もあります。役員であることもあります。一部の役員や牧師が共にそのようになってしまう場合もあります。そうなると、なんだかおかしい、と感じる信徒の意見など、もうなんとも扱われなくなるし、そもそも言えなくなってしまいます。
 
仕えるという意味の執事やしもべという意識は、すっかり飛んでしまいがちです。自分は一年間神学部に通ったから自分の意見のほうが一般信徒よりも正しい、と豪語した人物も知っています。その人は頂点に立たずによかったと思っていますが、ほかにも、自分のしていることが分からずに、自分は神に仕えていると確信している夫妻も知っています。クリスチャンというのは基本的に素直で、人を疑うのは悪いことだと考えていますから、そうした人物の真意を見抜こうともしないし、口を挟みもしないことが多いと思います。私もうっかり信用したために、痛い目に遭いました。ひとを疑うことは褒められたことではありませんが、蛇のように賢く見張っていることもひとつの課題とされたクリスチャンです。どんな肩書きであろうが、業績があろうが、それと、信頼を寄せるということとはまた別の問題であるということは、弁えながら、キリストのしもべであり続けたいと願うばかりです。



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