すべての人が救われるのか、そうでないのか

2018年5月17日

以下、失礼な響きをもつ語や表現があるかもしれませんことをお断り致します。
 
自分で判断することもままならぬような、精神的あるいは知的な(社会的な)ハンディキャンプを負っている人々、体の自由の利かない状態を強いられている人々、どのように表現しようが語弊があるので、記号的にこうした人々を「弱者」と呼ばせて戴くことにします。弱者は信仰告白を多くの人のようにできないことがあるとすれば、そうした人が救われないとするのは不条理ではないか、という考え方です。教会生活もできないとか、信仰というあり方を理解できないとか、いろいろな面から、「〜すれば救われる」という「〜」ができないのだとすると、そこに救いがない、とするのが一般的な教義である。それでよいのか、と。
 
そうなると、神はすべての人を救う、という考え方を成立させたくなります。もちろん、聖書にそのように受け取れる表現はあります。ただ、聖書は様々な人間の手で記され、また修正されもしたために、数学の定理のようにひとつに決定した論理があるわけでないので、そう理解できる表現もある、とするに留めることにします。多くの書簡を記したパウロにしても、手紙を書いた時期や、その手紙を宛てた相手、その環境や文脈などで、言い回しはいろいろあったことでしょうから、一部の表現だけを取り上げて聖書全体を決定するかのようにセンセーショナルに主張するという、聖書をかじった「肉」なる身にありがちな態度には、慎重でありたいと考えます。
 
ローマ書になると、パウロは落ち着いて、できるだけ論理の中で綴るように心がけているように見受けられますから、比較的理屈の通る理論になっていると見なし得ますが、それにしても、全面的に公式化してよいのかどうかは分かりません。神は審きをなすという受け止め方と、すべての人を救うのだという理解の仕方は、どちらか一方に簡単には結論づけられないことではないでしょうか。
 
ところで、それらの考え方は、どちらかしか選べないのでしょうか。「あれかこれか」のニ者選択しか道はないのでしょうか。どちらをも選んではいけないのでしょうか。
 
厳しい断罪があるとする主張。もしイエスがいまここでどう教えるだろうかという、畏れ多い推測を敢行すると、これはもうファリサイ派を扱ったのと同様でありましょう。しかし、それでは律法を蔑ろにしてよいという考えにも立ちはしなかったことと思います。ファリサイ派の義にまさる必要があるとしたのは、なにもマタイ的な箇所だけではなかったと思います。ファリサイ派の義というのは、自分は義の側にあるのだということを自分で決め、自分のその基準に沿わない人々は救われないと自分が決めるところに発生していたもので、イエスはこれには断固として敵対したはずです。むしろ、他人を裁くあなたは何者なのか、と。
 
正しい生活は、多くの書簡で推奨されているものです。キリスト教倫理というものは、それにより人が救われるとするものではないにしろ、あまりに外れることはよしとされませんでした。救われたが故に正しく生活できる、というのが多くの場合の論法であるように見えます。最もよくないのは、救われたのなら正しく生活しなくても構わない、と正当化するような動きでした。律法を蔑ろにする点について、パウロが厳重注意をしていることがあります。恵みが増し加わるように罪を犯しても構わない、というのは勘違いだ、と。この辺り確かに気をつけないと、ルターの、大胆に罪を犯せ、というテーゼでさえ、誤解に走ってしまうかもしれません。パウロは自ら律法に従うことさえ自由だとし、またむしろイエスのように、仕える自由を駆使していたようにも見えます。
 
しかし、こうしたパウロもまた、いわばエリート的な判断力や知識をもつ一人でした。ここで問題としているのは、私たちの社会が称するところの、知能的に福音を理解することの困難な人や、身動きできず意志の疎通も厳しく、信仰告白ができないような状態の人はどうなるのか、という議論でした。一定の行為や告白を通じて救われるという規則を用いる教会は、こうした人の救いを表立って言えないことになってしまいます。しかし、それを救うために、すべての人が救いの中にある、と決めるのが果たして残りの一つの道なのかどうか、それをいま考えているのでした。
 
イエスは、一方ではファリサイ派などに敵愾心すら表し、厳しく非難しましたが、他方では飼い主のいない羊のような群衆を憐れまれました。癒しを与えたとき、信仰告白があったら癒すという手続きの中にあったようには見えません。いわば無条件で、意思の疎通のないような人をも救いました。それはこの世での癒しであり究極的なものでない、と見ることもできますが、永遠のレベルを予表するかのように、救いの姿を見せたのだと理解することも可能だと思われます。だとすれば、イエスは、自分は義であるとし、自分にできることを救いの条件とし、それのできない者を断罪するような態度、つまりあのファリサイ派の態度については厳しく、そんな条件は捨てちまえと叫んだその一方で、虐げられていた無力な人々を、ほぼ無条件に救っていたように見ることもできるのではないでしょうか。人間のタイプを単純に二分することはできないかもしれませんが、胸を張るファリサイ派の祈りと胸を叩く徴税人の祈りとを明確に対比したように、救いのない姿がある一方、皆が救われる姿もあるということを示していたように見るのは、戯言でしょうか。
 
この見方を裏付けるものとして、私は、福音書の中のファリサイ派などの言動が、どうも現実のキリスト教世界からの声と重なって聞こえてきてしまうことがあるように感じる、という個人的な見解を挙げることにします。具体的に誰かの言動を裁こうとしているのではないので具体例は控えますが、イエス対ファリサイ派という図式をもし掲げるならば、教会の言動がどうにもファリサイ派の側のように思えて仕方がないことがあるのです。もちろん、それは私自身を含めてのことであって、私が蚊帳の外にいるつもりはありません。
 
さらに、どうしても無垢的に素直になれず、疑ってかかるような眼差しを与えられ、そのくせ単純に騙されたりする自分を含めて、あれこれ考えすぎる人が世の中にはいて、コヘレトの言葉を浴びねばならないかもしれませんが、常人には気づかれることのないことを探究し教えてくれる学者の仕事は、ノブレス・オブリージュの精神から、大きな責任を負っているのかもしれません。それでも、少しばかり聖書を調べる時間があったという程度の理由で、キリスト者として正しく聖書を読んでいるとか、聖書を知っているとか、そんなふうに誇ることは、到底できないでありましょう。
 
もしかすると、私たちキリスト者は、ふと目覚めて、こっそり夜にイエスを訪ねて行くべきなのかもしれないし、イエスに相談をして、せいぜい「あなたは神の国から遠くない」と言われたらすばらしい、という位置にいるのかもしれません。ファリサイ派や律法学者は、間違いなく、自分たちが神を信じ神に仕えていると確信していたのです。私たちが、聖書に描かれている彼らを平気で非難する時に、実は自分たちこそが、この世で彼らの役割を果たしているのではないか、という反省の視点を、つねに忘れないでいたいと思っています。



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