宣伝

2018年5月15日

昔からある、古びた小さなスーパーマーケット。いえ、昔はそれでもハイカラだったはずだし、肉屋や八百屋、魚屋がひとつの屋根の下に入り、それまでの個別の店とは違う近代的な装いに見えた時代があったことでしょう。しかし時代はその後変わり、大手のスーパー、そしてモールへと展開する中で、地域のそれはこぢんまりとしたものになってしまいました。
 
価格も、大量仕入れの企業と違い、そう安くはできません。客足も少なく、なんとか地元のお年寄りに口利きをしたり、地元の商店街とつながったりすることで経営を続けてきたとはいえ、集客力の衰えは隠し切れません。そんな中、改装を機に、入る店も少し入れ換え、明るい店内と変わりました。スペースの関係で品揃えは多くないとはいえ、小ぎれいな配置を心がけ、価格も決して高くは感じさせないようになりました。
 
でも、これでも、一度足の遠のいた客がそう易々と戻ることはありません。
 
それが、だんだん賑わうように変わってきました。理由はいろいろあるかと思いますが、私はその大きな影響として、Facebookがあるのではないかと思っています。
 
お年寄りがFacebookを活用しているかどうかというと、確かに怪しいものです。けれども最近――そして実は私も新たにこのスーパーのファンになった一人なのですが――、若い客が確実に増えているのです。Facebookの力があるのでは、と睨んでいます。
 
このFacebook、実にうまいのです。店長が若い人になったという噂もありますが、商品の写真の切り取り方、つまり近年いう「インスタ映え」するような写真の撮り方を心得、それをいくつか並べることで、ぱっと見で、「かわいい」「買いたい」と思わせるような品々がそこに載せられるようになりました。ほんと、巧いのです。
 
実は良いものであっても、宣伝がうまくないと、広まりません。私の文章は、その「良いもの」であるかどうかはさとおき、下手な部類にどっぷりと浸かっています。前置きが長いと見向きもされないし、そもそもが長文に目を通す時間など、なかなか誰ももてるものではありません。実は読めば、それなりにメリットはありますよ、などという態度では、よほど関心のある方でなければ、読んでは下さいません。
 
とにかく見てもらうことが一番。教会の情報発信は、この方向にシフトしてきています。敷居が高いと言われる教会なるものですが、もう昔気質で、知る人ぞ知る、それでよいのだ、などと言ってはいられない状況になってきたと言われ、またそれが少しずつ浸透し始めてきたのでしょう。面白おかしく冗談やユーモアを振りまき、教会って親しみやすい、と思わせることが常道となっていくのかもしれません。まずは見てもらう、そこから、行ってもいいのかな、行ってみようかな、と思うようになってもらう。それが、いまは正道となってきつつあるわけです。そもそも、「宣べ伝える」というキリスト教会のモットーは、「宣伝」と書いているではありませんか。灯火は高いところから照らすはずだと突きつけられていることを、改めて思い起こします。
 
単なる良し悪しではありません。この情報ツールが広まった時代は、そういうように活かせばよいのです。あのスーパーのFacebookは、やはり正解だと思います。地味ですが、チラシ作成や配布の費用がかからず、しかも見る人に好印象を与え、あとは口コミが頼りであっても、きっと良い道だと言えるでしょう。まあ私個人のことはさておき、「インターネットに存在しない教会は、現実にも存在しないのだ」とまで言い切る人もいるほど、これはなんらかの形で活かしていきたいし、しかもその中で、二番煎じや追従というだけでなく、その教会らしいあり方が見出せたらよいだろうと思います。一つひとつ、教会も特色や置かれた環境が違うのですから、すべての教会が一律に同じやり方でうまくいくとは限らないからです。
 
私も何か改善しなければならないのだろう、と感じたとすれば、まずは正確さを欠いてでも、簡潔に述べていかなければならないのではありましょうね。ああ、胸が痛い。



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