こどもの日に寄せて

2018年5月5日

妹が生まれたお姉ちゃん。これまでひとり愛されていたのが、ママはその赤ちゃんにつきっきり。そもそも最近はずっと遠ざけられていたような感覚をもち、何かご用事が済んだらまたママを独占するつもりでいたのに、敵は完全に姿を現したではないか……。
 
子どもは言葉でそうした気持ちを表現できないし、自分の気持ちを見つめることも難しいでしょう。経験を言語化するというのは、自分における出来事を自分から距離を置いて眺めるための重要な営みであるのかもしれません。
 
キリストと出会った体験をした場合、それを証詞という形で語る時が必要になります。きちんと文書に仕立て上げてから、キリストとの出会いを語ったのではありません。夢中で「お会いしました」と話してまわる人や、癒されたとふれまわる人の様子が、福音書には幾度も描かれています。十人の癒された人のうち、ひとりだけが感謝を伝えに戻ってきた、というような話も。病気は罪の故であったし、まともに共同体に加えられなかったのが通例であった時代、たんなる病気治しの事件ではなかったことを改めて思い返します。
 
責め立てられても、あれやこれやを弁解しようと準備する必要はない、必要な言葉はそのとき聖霊が備えてくださる。自分で何かをしようとか、仕上げようとかいうことばかり考えていては、それは思いつかないでしょう。神を信頼し、神が助けてくださることを、神が一切の責任をとってくださるということを期待しているならば、ひとり思案するには及ばないというのです。
 
そこで用意されて出てくる言葉は、自分が構築した論理でもなければ、どこかで誰かが言っていた「いい話」の二番煎じでもありません。神と私との一対一の関係の中で与えられた知恵でしょう。「知恵」は「知る」ことの「恵み」と書きますが、知識は外から与えられるということを暗示しているように思えてきます。
 
小さな、お姉ちゃんは、言葉にならない言葉が、感情となって現れるのでした。そう、言葉による分析も予備知識も要りません。ただ、ふだん祈っていれば、それはいざという時に同じような言葉がこぼれてくるかもしれません。自分の中の「素」の部分が、そのままに露呈するようになるかと思います。
 
子どもは、生のその気持ちや思いが、その時表に出るでしょう。隠したり、演じたりするのでなく、本来の自分が、現れることでしょう。それは、ちょっと恐いことでしょうか。恥ずかしいことでしょうか。でも、本当の自分が出てくることを恐れる人は、もしかすると神の国に相応しくないのかもしれません。
 
幼子のように。信仰において乳や粥ばかりというのは頼りないと言われるかもしれませんが、信仰は幼子のように、人目を気にせず、なりふり構わず、飾ることなく立ち上がらせてもらえたら、一歩を歩めたら、と、幼子に対して、憧れを懐くこのごろです。



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