光合成のたとえ

2018年5月3日

弟子たち、そしていまこうして教会につながる私たちに向けて、イエス・キリストは言いました。イエスはぶどうの木であり、あなたがたは枝である、と。
 
枝としてつながった私たち。それでも、自分の枝を、あっちに伸ばすぞ、こっちに伸ばすぞ、と自分の思いのままに自己を拡大しようとしがちです。すると、そっちへ伸びてはいけないよ、とカットされます。剪定です。切られた枝としては、どうして切っちゃうの、と悲しく思ったり、怒ったりするでしょう。しかし切った側からいえば、それを切らなければ、実りが悪くなるからであって、結局枝のため、よく育つためにはそのカットが必要だったということが、後から枝には分かるものです。切った農夫こそ、この事態の全貌を知ります。
 
私たちはその枝です。同じ木に結びつき、同じ根からの水をもらう限り、つながっていられます。枝につく葉によって、光を受けてその水と、無価値なような炭酸ガスから、光合成をして実につながる養分を生みましょう。また、他の生き物のために役立つ酸素を出しましょう。
 
一人ひとりは、適切な位置に配置され、任務を負っています。その場所で光を受けて、よい働きをしなさい、と信頼されて、そこに置かれています。私の居場所がそこにあります。



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