時の支配

2018年5月1日

新しい元号が一年後に使われ始めるのだそうです。個人的にこの元号というのを使わないので、今年が平成何年かということについて、いつも自信がなく、訊かれてもきちんと答えられない状態の私です。公文書でどうしても平成で書けと迫られると、いつも悩みます。どうして公文書でそう迫られるのか、そのあたりの閉鎖性云々はさしあたり言わないことにします。
 
元号はともかく、時の支配というものは、権力者のいわば究極の願望であったと言ってよいかと思います。現政権の支配は果たした。が、それは諸行無常の中にある。永遠にこの名による支配が続くことが理想である。だから後継者に己の血筋の者を就け、名が続くことを求めていく――自分が朽ち果てる存在であることは諦めなければならないにしても、自分の名は支配者の系列の中に燦然と輝いていられるように、と目論むのです。
 
時の支配、それは時を自分の名で刻むことです。聖書の中でも、何々王の何年の時、という記録があります。主なる神を仰ぐ記者にとってはもどかしい思いがあったかもしれませんが、歴史の記録性からすれば、この形をとらざるをえなかったことでしょう。
 
いま、国際的には西暦、すなわちキリスト紀元の年号が一般的に使用されています。日本の元号のように、国内ではそれを使わないという国は、イスラム関係の国々やユダヤ、またアジアの一部などいくつもあるのですが、さしあたり国際的対話の中では西暦を基準にしていると言えるでしょう。
 
いまや、キリストが世界の時を支配している、と大まかに言えるかと思います。キリストが世界の王であるのだから当然だ、などと言っている場合ではありません。これは西欧諸国の文明支配に基づく結果であるというような考え方のほかに、もっと根本的なところで捉えてみる必要はないでしょうか。
 
私は、この西暦世界の中で、キリストが世界を支配していると口にすることを恥ずかしく思うのです。それは、私の心をキリストが支配し尽くしていると言えないことを知っているからです。このことについては説明をいたしません。事実は、皆さまが証明してくださるだろうと思います。
 
もちろんそれは、私がこの世界にいる、ということを前提しています。しかし、私が世を見渡すときに、自分がこの世界にいる、ということを忘れているような情景を認めることが、実はあります。表向き、聖書から言葉を引き、神を称えている、信仰熱心な言葉が、私のタイムラインにどんどん飛び込んできます。何のことのないその言葉に、「アーメン」というコメントや「いいね」が次々と並んでいきます。しかし、ああ麗しいクリスチャン同士のつながりだ……と、私は単純には思わなくなりました。
 
表向き、聖書を信仰している姿勢を告げ、神を称えている言葉がそこにあるとしても、なんだかそれをやっている自分自身が正義であるという錯覚と勘違いに陥っているだけで、いつの間にか自分の思いや感情のほうが、神を従わせていくような経過が、その背後にありはしないだろうか、と懸念するからです。それはひとさまの心を勘ぐるとか裁くとか、そういうことで片づけられることではなく、自分自信の中に巣くっているものによって、懸念しているとう事情です。
 
神はこうですよ、聖書はこう言っています、と恰も信仰熱心であるような言明。しかし、よく見ていると、何か対立する考えを一蹴してけなしたり、他者を明らかに自分が神であるかのように裁いたりしていくようになることが度々あります。どうもキリストの教えやその歩みとはかけ離れたことをしているのではないか、と心が痛んでくることがよくあるのです。もちろん、それは私がとやかく言うことでないのは百も承知なのですが、自分の考えた「信仰」だけが正しくて、他人のはだめだと厳しく決めていく姿勢は、私にもあるだろうし、おそらく多くの人にあるだろうと思えて仕方がありません。それは、たとえ「私たちはどんな信仰でも寛容に認めます」と宣言していても、あまり変わらないように感じます。そう口にする人が、ある状況に置かれたらどんなに信じられないようなことを他人に突きつけるかも、私は見聞きしてきました。人間は、そんなものなのだろうと思うのです。
 
キリストの名を口にする自分が、つねにキリストの側にいて、正しいのであるような気がしてくる。すると人間の性というものは、いつしか自分が神になっていく。これは巧妙に仕掛けられた罠でもあり、分かりやすく言うならば、悪魔の手段でありましょう。今日のキリスト教放送局(FEBC)のお便りコーナーに、この構造に気づいた方の誠実な声がありました。「ああ、よく信仰しているねー」と声をかけてくるのは、キリストではない、悪魔である、と。私もそうだと思います。
 
キリスト紀元の時を刻むことは、キリスト教文化とは関係のない世界との関連によって、百年余り前から、「CE」「BCE」に変更する動きが始まっていますが、定着はまだのようです。世界はキリストが時を支配しているように見えます。しかし、一人ひとりがキリストに支配されているかというと、大いに疑問です。まずはこの私がその反例となるのですから。ではいったいキリストの支配とは何でしょう。支配は聖書の中で「国」の語で表現されるとすれば、神の国とは何であるのか、神の国はどこにあるのか、そんなことを、私たちはアウグスティヌスならずとも、真摯に問いかけ、またその実現に自分が関与できるかどうかという視点で、時を見つめ、歩みたいと思うのです。キリストの支配から一番遠いのがこの自分であるという意識。パウロが「罪人のかしら」と自分を見なした気持ちは、私なりに共感しているつもりで、今日を生かされています。



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