教会にはいろいろな人が訪れます

2018年4月15日

ネット上で発見をしました。いや、まさか誰かがフェイクを流しているのでしょうか。
 
ご記憶のある方、いらっしゃるでしょうか。大阪や兵庫を中心として、プロテスタント教会に、次々と消火器が投げ込まれた事件。72件もの同様の事件を起こした末、容疑者は逮捕されました。
 
まず、日本経済新聞の記事を転載します。
 

教会に消火器投げ込み、容疑者逮捕 大阪府警、計72件関与か
2010/7/5付
 
 大阪市旭区の教会に消火器を投げつけドアを壊したとして、大阪府警捜査1課などは5日までに、同府豊能町光風台、無職、池田康政容疑者(29)を器物損壊容疑で逮捕した。池田容疑者は、2008年9月以降、大阪、兵庫、京都、滋賀の4府県でプロテスタント系キリスト教会に消火器や石が投げ込まれた計72件の事件について犯行を認めているといい、同課が裏付け捜査を進めている。

 同課によると、池田容疑者は「過去に数年間、プロテスタント系の教会に通った。牧師に願いを聞いてほしくてやった」などと供述しているという。同課は、池田容疑者が72件の犯行をすべて記録していた手帳を押収。プロテスタント系教会に何らかの恨みを持っていた可能性があるとみて、詳しい動機を調べる。

 同課や教会関係者によると、池田容疑者は60通以上の犯行声明文を各地の教会に郵送。「私が犯人だ」「自分の家族が亡くなるのを守るため、神さまからやるように言われた」などと書かれていたという。

 
この犯人はこの1年後に、懲役3年6カ月(求刑懲役5年)を言い渡されています。それは朝日新聞の記事が手に入りましたので転載します。
 

教会連続襲撃、被告に懲役3年6カ月 大阪地裁 (2011年7月4日 朝日新聞)

 近畿地方のプロテスタント系教会や施設に消火器などが相次いで投げ込まれた事件で、建造物損壊と器物損壊の罪に問われた無職池田康政被告(30)の判決が4日、大阪地裁であった。三輪篤志裁判官は「教会関係者らへ与えた不安は大きい」と述べ、懲役3年6カ月(求刑懲役5年)を言い渡した。
 
 判決などによると、池田被告は2008年10月〜10年4月、大阪府や兵庫県の17カ所の教会施設に消火器を投げ込み、窓ガラスを割るなどして計約100万円の損害を与えた。襲撃事件は両府県や京都などの施設計約70カ所で起き、昨年7月に大阪府警に逮捕された被告は「すべて自分がやった」と供述。大阪地検は裏付けが取れた17カ所の被害を起訴内容に盛り込んだ。
 
 動機について、検察側は公判で「親族らに不幸が続いた被告が気分を晴らすためにやった」とし、被告は「苦しみを神様に知らせたかった」と説明。4日の判決は「動機が信仰に基づくものであったとしても、教会の警戒態勢などを調べた上で人目につかない夜間・早朝に襲撃する計画的犯行であり、許される行為ではない」と判断した。

 
報道ではこういうことだったのですが、私はすごいものをネット上に見つけてしまいました。この犯人の手記です。それもなかなかの量の。さすがに私も精読は諦めましたが、そこにはクリスチャンからすると、実に不可解な脈絡の文章が綴られています。
 
          手記
 
この人が精神鑑定を受けたのも理解できるような、不可解なところもありますが、文章が支離滅裂であるとまでは言うことはできません。一定の筋が通っています。何かしら病的な視点で捉えることもできましょうが、それにしても、自分で神さまを求め、信仰をもっているとしています。
 
この人は、どんな信仰をもっていたのでしょう。また、その信仰は誰にどのようにして教えられたことに基づいているのでしょう。もちろん、適切な信仰だと言えるものではないことは一目瞭然なのですが、教会や神に真底すがっていた純朴な気持ちそのものは嘘ではないと思うのです。それだけに、神の救いなどの福音が届けられていないことを、残念に思い、また悔しくすら感じます。
 
福音書にあるような、悪霊に憑かれた例ではないか、という理解もあろうかと思います。でも、それだけでしょうか。そんなふうにドライに言える立場なのでしょうか、私たちは。手記の最後の(4)には、被害教会72のうち、55(結果的にこの数のようです)の教会が、被害届も告訴状も取り下げたと記されています。これらの態度もあっぱれでしょうし、事件を成立させるためにも被害の提出に応じた17の教会も、間違った対応ではないと思います。
 
教会にはいろいろな人が訪れます。幻聴や幻視といったものの有無に拘わらず、心などの弱い人は、古く旧約聖書の時代から、「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者も皆彼のもとに集まり、ダビデは彼らの頭領になった」(サムエル上22:2)のように、ダビデのもとに集まってきた例があります。そもそも預言者の見ているものは、紙一重であるかもしれません。また、ここでは詳述しませんが、現実に悲惨な事件が起こった例もあります。牧会者は、時に命懸けとなります。
 
それに、そもそも私(たち)の信仰も、何か突拍子もないものでありはしないでしょうか。そうかもしれません。復活などということを真顔で言うなんて、どうかしています。霊に満たされるなど、危ない、危ない。ぶつぶつ酒に酔ったようでありながら祈っているなど、奇妙なことです。カテキズムも、世から見れば異常な幻想の世界でしかないかもしれません。そのくらい、世間に迎合しないものであるからこその信仰であるとも言えましょうが、牧師や伝道師という人の中に、精神的に問題があるのを見たケースもいくつかありますので、このような「霊」のなすことについての評価は、本当に難しいものだと改めて思います。



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