熊本の方々へ思いを馳せて

2018年4月13日

熊本のあの大きな地震から、2年が経ちました。地震は、言うまでもなく突然に襲います。人の都合も関係なく、どんな人間的地位や財産があろうとも、すべての人が揺り動かされます。それでも、財産と言う意味では、被害の差は起こります。耐震構造に換えることができる財のある人や、シェルターの備えができる財のある人は、違ってくるでしょう。さすがに津波の破壊力にはかなわないとしても、それでも、何か違う側面がないとは言えないでしょう。
 
それは、仮設住宅などの状態に追い込まれても言えることでしょう。仮設入居と補助との関係も制度的にあり、楽な道がそこにあるわけではありません。ある弁護士の言葉として西日本新聞は「時間がたつほど過酷な生活に慣れや諦めが生じる。外部から積極的に働き掛けないと、生活再建の格差が広がっていく」と伝えています。
 
その「外部」に、私(たち)が属しているとすれば、働き掛けをするように要請がしてあると読むことができます。「誰かがする」ではなく、私(たち)が。それでも、何でもできるわけではないので、できることを、できることから、ということになるでしょう。2カ月に一度益城町での憩いの場つくりは、心の支えにいくらかでもなれば幸いです。けれど、実務的なことは何もできていません。そういう力や知識のある方の現れるのを待つ、あるいは祈るばかりです。
 
「神さま、してください」とキリスト者は祈ります。それはよいことです。これは主の戦いだ、というように、万軍の主が戦うという図式は旧約聖書の随所にあります。確かに、人間が自分の力を過信して、なんでも人間にはできるのだという態度でがむしゃらにするのがよいとは思えません。しかし、それと、手をこまぬいて傍観することとはやはり違います。それも、他人がどうだと批評するのでなく、自分はどうか、と問われて立っているという図式の中で、考えるべきことではないか、と。



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