新約以前の「復活」

2018年4月8日

新約聖書ではしきりに扱われる「復活」。それが基本的に受動の形で「復活させられる」のように書かれていることについては、先週4月1日のこのコーナーでお伝えしました。
 
旧約聖書の成就が新約聖書であると言われるなら、旧約聖書にもさぞかし復活が臭わせられているだろうと思いきや、悲しいくらいに少ないのが実情です。少なくとも日本語訳としては、旧約聖書の中に、「復活」の語は見当たりません。しかし復活の内容を思わせるものは探せば見つかるもので、幾つかの例をここに引いてみたいと思います。
 
  あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく
  あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
  命の道を教えてくださいます。(詩編16:10-11)
 
  わたしは知っている
  わたしを贖う方は生きておられ
  ついには塵の上に立たれるであろう。
  この皮膚が損なわれようとも
  この身をもって
  わたしは神を仰ぎ見るであろう。
  このわたしが仰ぎ見る
  ほかならぬこの目で見る。
  腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。(ヨブ19:25-27)
 
  あなたの死者が命を得
  わたしのしかばねが立ち上がりますように。(イザヤ26:19)
 
主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。そのとき、主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」わたしは答えた。「主なる神よ、あなたのみがご存じです。」そこで、主はわたしに言われた。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」{エゼキエル37:2-6)
 
  その時、大天使長ミカエルが立つ。
  彼はお前の民の子らを守護する。
  その時まで、苦難が続く
  国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。
  しかし、その時には救われるであろう
  お前の民、あの書に記された人々は。
  多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。
  ある者は永遠の生命に入り
  ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。(ダニエル12:1-2)
 
どうでしょうか。頼りないと言えば頼りないですね。古代イスラエルは、キリスト教以降思い描くような形での復活の思想をもつものではありませんでした。
 
旧約聖書に復活と言えるものがあるとすれば、死人を生き返らせた話です。エリヤやエリシャが死人をよみがえらせました。しかし、それは新約聖書でいえばラザロの復活に似たもので、キリストの復活と並ぶようなものではなかったと思われます。
 
実は「復活」という語は、次の2つの箇所に、あるのはあるのです。まずは、紀元前167年からのマカバイ戦争の記事を描くマカバイ記第二です。
 
ところが、それぞれ死者の下着の下に、律法によってユダヤ人が触れてはならないとされているヤムニアの偶像の守り札が見つかり、この人々の戦死の理由はこのためであるということがだれの目にも明らかになった。一同は、隠れたことを明らかにされる正しい裁き主の御業をたたえながら、この罪が跡形もなくぬぐい去られることを、ひたすら祈願した。高潔なユダは、これらの戦死者たちの罪の結果を目撃したのであるから、この上はだれも罪を犯してはならないと一同を鼓舞した。次いで、各人から金を集め、その額、銀二千ドラクメを贖罪の献げ物のためにエルサレムへ送った。それは死者の復活に思いを巡らす彼の、実に立派で高尚な行いであった。もし彼が、戦死者の復活することを期待していなかったなら、死者のために祈るということは、余計なことであり、愚かしい行為であったろう。(マカバイ二12:40-44)
 
もう一つは、預言者エズラに下りてきた主の言葉の中に、こういう部分があるのでした。
 
死人を見つけたらその場で印をして、墓に納めよ。そうすれば、わたしは人々を復活させるとき、お前に第一の座を与える。(エズラ・ラテン語2:23)
 
聞いたことのない書だとお思いの方がいらっしゃることでしょう。それもそのはず、プロテスタント教会で使う聖書には、これは載っていませんから。ですが、プロテスタントでは聖書という形では認められていませんが、カトリックでは聖書として含ませている一連の書物があります。カトリックとプロテスタントが共同して出版した新共同訳聖書では、「旧約聖書続編」という名で、それの付いたものとそれを省いたものとが並行して販売されています。聖書として扱わなくてもそれは構わないですが、この続編、まだお読みになったことがない方は、ぜひどこかで通読してみてください。新約聖書がここから引いているんだと気づくことや、ユダヤ人たちがどうして新約聖書であのような考えをとったのかなど、思わず膝をたたくことがあるでしょう。また、西洋文化はこれをも聖書として扱ってきた時期が長いせいもあり、絵画や音楽に、この続編の場面が多々描かれています。また、物語としても実に面白いものが幾つもあります。旧約と新約の間には数百年の「すきま」があると言われますが、そこを埋めるのがこの続編です。
 
この世で辛い思いに包まれた人は、その苦しみから逃れようと、死を願うという場合があります。しかし、ともすれば「死ねば終わり」と考えることの多い日本人の文化と比較して、ユダヤ文化では、同じ苦しみを受けても――それはいまの日本とは比較にならないような理不尽な社会だったと思われます――、死の向こうに希望があると考える素地がありました。小国イスラエルは、絶えず大帝国の狭間で滅亡に脅かされつつ、「いつかきっと」と未来を希望する信仰の中で国の栄えを望んできたのですから、それが個人レベルになることは潜在的にありえたのだと思われます。
 
聖書を注意深く読めば、「終わりの日」とあるものは、全然「終わり」ではありません。そこから何かが始まるというような書き方がしてあります。死んだら何もかもおしまい、という言葉が飛び交う私たちの世の中で、死という終わりが実は始まりである、という見方ができるということは、実は稀有に素晴らしいことなのだ……と思いませんか。



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