神は全能ではない

2018年4月7日

いったい、議論や説明というのは、言葉の意味を明確にしないことから紛糾し、すれ違い、また反目してしまいます。あるいは、そもそも噛み合わないということになります。
 
「全能」とは何でしょう。神は全知全能などと私たちはイメージすることがありますが、人間が想定する意味での全知全能というものを神にあてはめてよいのかどうか、そこからまず疑われます。論理的に全能であるならば、神に「できない」という述語を適用することができなくなります。
 
多少ことば遊びではあるのですが、昔「頭の体操」という本に載っていた例として、「神は自分が持ち上げられない石を作ることができるか」という問いがありました。これを「できる」と肯定すれば、「持ち上げることができない」ものがあることを認めることになる、という指摘でした。
 
神の子ならそこから降りてみよ、と群衆の怒号に遭ったイエスは、十字架から降りることが「できませんでした」。潜在的に「できた」のにそうしなかったというだけで、それは全能を覆すものではない、という説明は可能です。しかし、自由がある中でそれをしなかったというよりは、必然の中に置かれたという点で、「できなかった」と称しても、さほど問題はないものと思われます。
 
歴史は、一旦決められて流れてしまえば、そうでなかった選択は不可能であったかのように見えることがあります。それを不可能混じりに受け取るのではなく、神の予定として理解する積極的な態度を取ることも、人類はできました。しかし旧約聖書においても、神を私たちの論理が要求する「全知全能」であるとするには無理のある場面が幾多もあることに気づきます。
 
神の全能について考えるとき、人の自由について考えることが参考になるかもしれません。ルターの有名なテーゼにあるように、ひとは自由故に仕えるという、逆説めいた考え方があります。カントもまた、道徳律に従う自由を――理論的には認識できないにしろ――実践的に事実だと認定することで、世界のすべてを一定の形で説明したのでした。
 
その意味では、神の全能もまた、人間の形式論理的な扱いではなく、パラドックスのようなものとして掲げては如何でしょう。やっぱり神は全能じゃないじゃないか、と決めつけるのではなく、また、神は全能ですから跪きましょう、と無考えに強要するのでもなく、神の与えたパズル(謎)を愉しみながら、しかし真摯に捉えつつ、その神を仰ぎながら歩ませて戴きたいと私は願うのです。神を、私たちの想定する「全能」のままにさせなかったのは、この「私」なのですから。



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