女性の方は土俵から降りてください

2018年4月5日
舞鶴市のイベントで、土俵上で倒れた市長のために、駆けつけて心臓マッサージを始めた女性などに対して、「女性の方は土俵から降りてください」と繰り返しアナウンスがあったというニュースは、昨夜すぐにはテレビでは殆ど出てきませんでしたが、ネット上では多くの声が渦巻いていました。
 
ここで、土俵の「女人禁制」そのものを引き合いに出すことは控えます。それが善いか悪いかという点に目を奪われると、見失う視点があると考えるからです。また、現場で女性より先に男性が心臓マッサージをしたとか、医療関係者であろう女性が心臓マッサージをしている時にはアナウンスはなかったとか、そうした事の順序の問題に還元してしまうことも致しません。同様に、物事の本質を見えなくします。さらに、この事件の後に、何事もなかったかのようにイベントが続けられたという冷たさを問題視するつもりもありません。大量の塩を蒔いて汚れを清めようとしたとしても、そのしきたりそのものを取り上げようとは思いません。もちろん、相撲協会の最近の問題を寄せて考えることもしません。益々本当の危機を見失ってしまいますから。
 
あまり話題に上らない(上り得ない?)2つの点を、ここでは取り上げます。お考え下さい。
 
★何故女性は降りて男性のみ残れというアナウンスがなされたのか。
 
もちろん、女人禁制だから、ということを言おうとしているわけではありません。恐らく行司のような土俵関係者が言ったか、言うように命じたかであろうと思われます。命の瀬戸際の場面でそんなことを持ち出すことが非常識であることは、落ち着いて考えれば分かります。しかし、アナウンスがなされた。何故か。――それは先ず、その人が「職務に忠実だったから」です。自分が全責任を持って判断を下すというものではなく、土俵上に女性を上げてはいけない、という規則に従うことこそが自分の仕事であるという使命感の下に立って、職務を果たすことが最優先であった、ということです。――もう一つは、ここのところ話題の「忖度」です。組織の上層部は、かつて女性の大阪府知事を表彰式の時でも土俵には上げなかったという判断を下しました。今回もそのような判断基準をもっているのではないか、と忖度した心理が働いている点です。これらは同じひとつのことですが、自己責任感と他者への心理という点を区別して捉えておきたいと思います。
 
ハンナ・アーレントというユダヤ人の哲学者がいます。『全体主義の起原』が戦後、センセーションを巻き起こしました。ナチスの残党の裁判の席で見た有様から、「悪は悪人が作り出すのではなく思考停止の凡人が作る」との評を呈しました。虐殺を命じた人間は残酷なことをなすような人間ではなく、凡庸な、職務に忠実な小心者であったということを見出したのです。自分はただ仕事をしただけだ、ということで、何百万人ものユダヤ人を虐殺できる人間の姿。
 
今回の土俵にまつわる中に、この人間性がしっかり表れているということに注目すべきだと思うのです。その担当者を非難しているのではありません。あくまでも、人間にはそういう面があるのだ、という指摘です。それは、誰にでもあるということで、時と場合によっては、私もあなたも、そういう手を下すことをなしうるという危険性を言っているのです。
 
会社や組織の利益のために、家族の損失にならないように、目を瞑って不正をなすということに、思い当たりませんか。
 
 
★相撲協会を批判する私たちがそんなことを実はしているという可能性はないか。
 
今回、「しきたり」あるいは「規則」が至上の原則であって、それに抵触することは禁止しなければならない、という意識がかの判断をもたらし、実行させようとしました。そのためのアナウンス発言は、むしろ正義であったのです。
 
キリスト教会に限定して考えます。これと同様なことはないでしょうか。もちろん、すぐにお感じになるように、これはまさに律法主義とキリスト教会が呼んでいる事態です。安息日と命とどちらが大事か、というキリストの問いを重ねて考えた人もいることでしょう。しかし、ファリサイ派や祭司長たちにとっては、律法を守ることのほうが優先でした。それをキリストが批判したのはたいそう勇気のいることであったし、当時の常識を覆したわけです。つまり、律法を守ることが最優先であるという原理は、当時の絶対的な常識であったのです。なにせそれは神の律法です。これに勝る原理はありません。律法を守ることのできる者が善人であり立派な者であり、指導者であり支配者でした。守れない者は貧しさを甘んじなければならず、身分も低く、軽蔑される立場が当然でした。そうした人の命よりも、律法の秩序が保たれるべきでありました。
 
そうだ、だからイエス・キリストを信じるキリスト教会は律法主義を批判する。今回の土俵の件も、命を軽視する錯誤であり誤った考えやしきたりにほかならない、と批判したくなったキリスト者もいたかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。同性愛者を恰も地獄に堕ちる者のように扱っていたのは誰でしょう。悪をなしてしまった信徒に聖餐停止の規則を適用していたのは誰でしょう。そうした弱い人こそ、赦しの聖餐の恵みを受ける存在だという声もかき消され、聖餐を懲罰の材料にしていたのは誰でしょう。また、その聖餐にしても、明日にも命がなくなるかもしれない場合(そんなことは原理的に誰にも分からない)にも、一定の規則の下に洗礼の資格があるかどうか審査を施してからやっと与れるというしきたりを守っていたのは誰でしょう。聖書には神学校に何年間通い卒業して何年間働いた時初めて聖書の言葉を語ることができるなどというふうには全く書かれていないと思うのに、そのような規定の下にしか説教をさせなかったのは誰でしょう。いまなお、女性を講壇に立たせない教会は少数でしょうが、もしあれば、相撲協会と何も変わらないとは言えないのでしょうか。
 
気に入らないことをなした牧師を、ゆるすなどとは大違いで激しく罵り非難し、追い出す懲罰を与えた教会もあります。何に基づいてそうしたのか。規則であり、しきたりであり、また忖度だったとは言えないでしょうか。
 
 
不遜に聞こえたかもしれません。教会批判をしているのではありません。キリストの言葉が聞こえてくるだけです。キリストは、こうしたことがなされている教会を、キリストの言葉に相応しいものとして見ていらっしゃるだろうか、と考えているだけです。組織の意向、上層部の感情、そうした存在の遙か上にいるのがキリストではないのでしょうか。むしろ、キリストの意向の忖度はないのでしょうか。
 
他山の石として、あまり誰も言わない(言えない)ことを、敢えて申し上げました。失礼に響きましたら申し訳ありません。しかし、良心から語ったつもりです。

【P.S.】
その後いくらかの取材ができてから、各テレビ局が大きくこの問題を取り上げるようになりました。テレビをとことん見たわけではありませんが、しかし、相撲協会に責任を負わせるスタンスばかりで、あの場にいた観客(の一部)や実際に土俵にいた職員らが、女性を追い出す声をしきりに出していたことをせっかく指摘しながらも、そこに目を向ける議論になっていなかったのは残念です。また、それが恐いことだと思います。「十字架につけろ」との怒号を立てピラトを動かしたのは、群衆だったのです。そして、一人ひとりはその群衆の陰に隠れて、自分はそのことには関係がない、と思い込んでいるし責任を追及されない一般の人々なのです。民衆は一定の権威の陰に隠れつつも、権威の動きを決める要因となっている恐さが、私のパースペクティヴから認められる大きなリスクであると言えます。それは私自身もそこから逃れていると断言できない恐ろしさでもあります。「見る者」はその見られている(と本人は思い込んでいる)状況と関わり、その状況をつくる作用をなしている、加担しているということへの自覚がない怖さに、気づいているかどうか。大切なのは、その点だと考えます。

【P.S.】
しつこいようですが、付け加えます。今度は一斉に「女人禁制だなんておかしい」という声が席巻しています。これまでそんなこと考えていなかったような人も、おそらく。少なくとも、これまでそんなことを自ら言うつもりもなかった人々が殆どです。これが、ルカ的な(悪口による)「群衆」の姿であるということを申し添えておきます。「それでよい」と考える人が発言する暇を与えない怖さがこのように現実のものとして証明されていることになりはしないでしょうか。突然「正義」が右向け右と号令をかけてそれに従わざるをえなくなる……ここに気づき、目を留めていることが「見張る」ということだと考えます。



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