逆説

2018年3月18日

平尾教会協力牧師青野太潮師は、日本の新約学、とくにパウロの解釈においては大きな貢献をなした方です。ご自分に与えられた信念に徹することで、他者の単純な批判に動じることがない、と言うと頑固だという印象を与えるかもしれませんが(そうでないとは言えませんが)、聖書の原文に誠実であろうと徹底的に向き合った結果であることは間違いなく、ある意味でこれほど聖書を忠実に読もうとする姿勢はなかなかないと言ってもよいかと思うのです。
 
第二コリント6章は、その青野師が強く主張する、従来の訳と解釈へ批判を投げかける箇所の一つです。ご自身で訳された、いわゆる岩波訳だけに見られる、ユニークな訳文を引用いたします。
 
私たちはこの奉仕が〔人々から〕誇られないために、いかなることにおいても、いかなる躓きの機会をも与えないようにしている。むしろすべてのことにおいて私たちは、神の奉仕者として己れを示している。〔すなわち、〕多くの忍耐において、患難において、危機において、行き詰まりにおいて、鞭打ち〔の刑〕において「牢獄において、騒乱において、労苦において、不眠において、飢餓において、純粋さにおいて、知識において、寛容において、慈愛において、聖霊において、偽りのない愛において、真理の言葉において、神の力において、左右〔の手〕の義の武具によって、栄光と恥辱とによって、悪評と好評とによって〔、己れを示している〕。私たちは、人を惑わす者でいて、同時に真実な者であり、人に知られていない者でいて、同時に認められた者であり、死んでいる者でいて、同時に、見よ、生きている者であり、懲らしめられている者でいて、同時に殺されることのない者であり、悲しんでいる者でいて、しかし常に喜んでいる者であり、貧しい者でいて、しかし多くの人を富ませる者であり、何ももたない者でいて、同時にすべてをもっている者である。(6:3-10)
 
ギリシア語本文を見ると、この訳が如何に原文に忠実であるかが分かります。日本語では要するにこういうことだな、と忖度してまとめたり、日本語ではわざわざ言わないから訳出する必要はないだろう、と消したりすることなく、パウロが記しているギリシア語をそのまま日本語で理解できるように伝えた結果がこれである、と言って差し支えないだろうと思います。
 
新共同訳と比較してみると、原文に即したが故に目立つ相違点はおもに3つあります。 ・前半から「において」が繰り返されすべての名詞に付いている様子を、原文の雰囲気を伝えるために繰り返し示してていること。
・後半で「ようでいて」と並ぶ新共同訳の、前者を否定して後者を肯定するかのようにしか聞こえない日本語を、「でいて、同時に」と、前者も肯定する形で訳出していること。この「同時に」は原文のニュアンスを伝えるために強調して置かれた訳語だと言えます。
・新共同訳が何故か訳出しなかった「見よ」という、イスラエル文学にしばしば見られる注目を促す語を、パウロの勢いのままに示したこと。
 
とくに第二点について、青野師は「逆説的同一性」という表現を用いて、この箇所だけに留まらない、パウロの十字架の理解やイエスの復活の理解へと論を展開することになります。
 
これ以上言葉を連ねると、ぼろが出て参りますので、その議論に関心をお持ちの方は、著者を訪ねてみることをお勧めします。皆さんお持ちの(?)岩波新書『パウロ』であれば、p154-156にコンパクトにこの箇所についてまとめられています。
 
ここからは、私の考えです。
 
「逆説」とは、「パラドックス」という表現で使われることもありますが、この「パラドックス(考えドクサに反したパラ)」は、追究するといくつかの側面のある概念です。あまり厳密に問わず説明してみるとこうなるでしょうか。
・一見事実でないように受け取られうるが、深く考えると真理であると理解されうる文。
・非常識とも言える結論だが、論理的にたどりついたという場合の文。(アキレスは亀に追いつけない)
・ある言葉から推論をつなぐと、最初の言葉を否定してしまう結論に陥り、矛盾を呈してしまう場合の文。(私はいま嘘をついている)
 
最後のものは20世紀の論理学の発展に大きく関わったパラドックスであり、二つ目はギリシア哲学から検討され続けてきました。そしてこのうち、最初の考え方を活かしているということをはっきりさせるために、「パラドックス」ではなく、「逆説」を用いるということがあります。
 
クリスチャンは、単純な論理で潰されることはありません。死んで、生きた主イエスを掲げるのです。罪ある者が無罪なのです。罪があるようで実は罪はないのです、などと言っているわけではありません。無理に、よくないことを否定しようともがく必要はありません。否定すべきことも、悪も、罪も、そのままにあるのであって、それはそれ。その上で、神から与えられるのは、勝利の宣言です。
 
聖書はそもそも、この逆説に満ちています。神のかたちに全能の神がつくった人間が神を裏切り追放されるという図式。家督を継ぐべき兄でなく弟により継がれていく家系。弱小国イスラエルをこそ神は愛し導いたという理解。それらは一方を否定し他方をこそ認めるという論理で解決するものではなく、対立するかのようなものも結果的にどちらも大切に扱われ、そこに神の慈しみが生じました。
 
人間の目では「ある」のに「ない」、「ない」のに「ある」という「逆説」が成立しているのが私たちの「信」という場です。そう、「信」はそうした対立を超えてもつことのできるもので、その「信」によって、「ない」から「ある」へと創造がもたらされることも可能です。この点、神の言葉が出来事となる、という言い回しで、前世紀から大いに議論されてきました。
 
そう言えば、京都の牧師がよく言っていました。ひとつ間違うと、こんな怪しいことが起こります。
――「ない」ようで「ある」のが罪、「ある」ようで「ない」のが信仰。
これはまた別の次元のお話であり、自己認識の甘さを指摘する言葉として、私の心に残っている戒めです。
 
これからいよいよ過越祭の時季、つまり十字架と復活という、キリスト者にとり最も大切だと言える教会暦を迎えます。キリストの十字架は過去に終わったものでしょうか。復活はおとぎ話でしょうか。それらはどちらも、いまここにおける、私にとってのリアルであることができるはずだ、というのが聖書のもたらす力です。そこに信頼を置くことができるなら、ダイナマイト的な喜びが、きっとあなたを包むこみ、エネルギーとして現れることでしょう。



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