「ある」について

2018年3月16日

「こびとなんて、いないよね」
 
絵本についてのある本の中で、子どもにこのように言われたときにどう返しますか、という問いかけがありました。私は迷わず、「いるんだよ」と答えるはずです。わずかなためらいも見せません。子どもには、それが必要だと思うからですし、また「いる」と言う自分の心にも偽りをもっているつもりもありません。
 
その本の著者も、同意見だと分かったとき、うれしく思いました。男の子3人を絵本で育てた私としては、絵本について生涯考えてきたその人と考えが同じだというのは、自分のしてきたことが間違っていなかったという安心にもなったのです。
 
サンタクロースはいるの? この問いにも、私は同様に答えるでしょう。そのほか、子どもの心の中に芽生えた、目には見えないものの存在概念を、基本的にみな肯定したいのです。
 
そもそも「いる」「ある」とは、どういうことなのでしょうか。
 
「福音と世界」の3月号の中で、永井隆さんのことについての論考がありました。長崎原爆のときに身を挺して働き、多くの著書によって知られる医学者であり、カトリックの信徒です。それはえてして美談として語り継がれますが、その論考では、戦争協力をした責任の部分を追及していました。偉大なことをした人に対しては、しばしばこのような、汚点(よく「黒歴史」と言われるようなこと)が暴かれようとします。マザー・テレサについてさえ、どれだけ悪評やデマが陰で飛び交っていることでしょう。ではこのことが明らかになった故に、これまで永井さんに憧れ、慕っていた人の夢は壊されるのでしょうか。あの永井さんのようになりたい、と学んだり歩んだりしてきた人の一途さは、空しくなるのでしょうか。
 
「ある」とか「ない」とかいう言明を放つのは人間です。人間の判断がそのように定めています。歴史の中で、かつてはそんなものは「ない」と言われていたものが「ある」ようになることは多々あります。発明により開発されてできたものもあれば、ないと思われた自然物や生物が発見される場合もあります。
 
そして「ある」というとき、私はかつて幻想を見ました。存在者は原子からできているといいますが、その原子の内部構造からして、それはいわば「スカスカ」なものです。事物と外部との境界線はどこにあるのか、原子レベルから見れば曖昧なものです。いえ、そこまでいかなくとも、「あなた」はどこまでが「あなた」でしょうか。体の皮膚? それでは口から肛門までの消化器官の内部はどうでしょう。そこは体内に位置しますが、考え方によっては、外部です。「あなた」には属さない空間です。「あなた」は、「あなた」の内部に、「あなた」でないものを抱えて動いています。肺の中も、もちろんそうです。「あなた」として「ある」のは、どこまでなのでしょう。
 
「ある」という述語をつける場合、いろいろ考えるとそれはあまり自明なことでなくなります。「心」はありますか。どこに、どのように「ある」のですか。私たちはかなりのものについて、「ある」ことを「信」じているに過ぎないのではないでしょうか。
 
イエスは実在しなかった、と言う人がいます。一時期盛んに議論されたともいいます。およそ歴史の証言からしても、そう言うには値しないということがいまは一般的ですが、このときにも「ある」というのが何を意味しているのかにより、如何様にも説明ができそうです。では、福音書に描かれたイエスは存在したでしょうか。リベラルに聖書を読み解くならば、その通りには存在しなかった、と言わざるをえないでしょう。けれども、その描かれたイエスに従う者がいまこのときにも世界中に何十億と「いる」のであるとき、そのイエスが「ある」と言うことに、何か差し支えがあるでしょうか。
 
その「ある」とは、如何なる意味で「ある」のか。カトリック教会の管理人の息子で、神学を究めたハイデガーは、そのような問いかけから、西洋の伝統の中での「ある」の概念をユニークな形で追究しましたが、歴史的存在としての民族に考えが及んだとき、ナチスにのめりこむことにもなりました。ルター派の牧師の息子で西洋古代文献にいては右に出る者がいないほどの天才であったニーチェは、世界の存在の中に意志を見出して、徹底的に否定したかった神概念なしで「ある」ことと精神を壊すまで格闘しました。
 
「ある」ことへの問いは、人間の叡知を究めても、到達不可能な解答を隠しているようです。人は、言葉と存在とにおいて一致を有しません。神のみが、言葉と存在との一致を果たします。そのありかたを真理と呼び、それが歴史的に生起することを出来事と呼びますが、聖書から神を説き語るということは、それをその都度いまここにおいて説教者を通して一回限り発現する現象として成立する営みであるのかもしれません。そのとき、何かしら或るものが「ある」ようになります。それまで「ない」はずのものが「ある」ようになる、いわば神の業が小さな形ではありますが、そこで起こります。聴く者を、そして語る者自身をつくりかえるような神の言葉が、主の日に奇蹟のように放たれるのです。
 
だから、イエスも「ある」し、イエスの復活も「ある」し、聖霊も神の業も「ある」のだと、確信をもって告げ、受け止め、それに生かされる私たちが「いる」のです。そもそもイスラエルの神はモーセに自らの名を明かしたとき、「わたしはある」と告げ、言葉と存在の一致を知らせたのですから。


【付記】その後、新刊書として話題の『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル)が届きました。新しい実在論を提唱する若手の哲学者が、世界中で議論を巻き起こしています。かつてフランシス・フクヤマが『歴史の終わり』でブームになったことがありましたが、一時的であったとしても、哲学が正面切って話題にされるというのは、大切なことだと言えるでしょう。今回はなにぶん、存在論そのもの。ハイデガーあたりの時代と比べてずいぶんと卑近な語り口調になっているようですが、この「ある」「ない」の問題にまたしばらく浸ってみようかしらと思っています。



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